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2014年9月 3日 (水)

霊魂の哲学と科学(その50)

霊魂の哲学と科学(その50)
第6章 霊魂の科学(18)
第6節 霊魂と国家(7)
2、正義について(6)

(5)ポピュリズムについて(1)

 衆愚政治とポピュリズムは違う。衆愚政治とは、政治家の大半が知的訓練を仮に受けていても適切なリーダーシップが欠けていたり、判断力が乏しい人間に参政権が与えられている状況である。その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな政策が実行される状況をさす。また、政治家がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。エゴイズムは自己の積極的利益の追及とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどを含む。それに対し、ポピュリズムとは、ラテン語の「populus
(民衆)」に由来し、民衆の利益が政治に反映されるべきという政治的立場を指す。大衆主義。ノーラン・チャートによる定義では、個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても慎重ないし消極的な立場を採る政治理念を指し、権威主義や全体主義と同義。個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても積極的な立場を採る政治理念である自由至上主義(リバタリアニズム)とは対極の概念である。
 私は、ポピュリズムを、ニーチェのいう大衆のルサンチマンが生み出す大衆主義だと考えており、プラトンの「哲人政治」とは対極のものであると思う。すなわち、ポピュリズムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。
 報道において「衆愚政治」という意味で用いられることもあるが、その場合は、「今日では、複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始し、真の政治的解決を回避するもの」として、ポピュリズムは批判的に言及されることが多い。民意を離れてデモクラシー(民主主義)は運用できないとしても、民衆全体の利益を安易に想定することは、少数者への抑圧などにつながり、危険であるからである。しかし、そういう行き過ぎがあると、これからの時代、そういうマイナス面をできるだけ速やかに是正していかないと大衆受けしないのも事実であろう。

 私は、日本の政治はようやくポピュリズム(大衆主義)になってきたとおもう。ポピュリズムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。民意を尊重する政治、おおいに結構なことではないか。
 なお、ポピュリズムは、得てして衆遇政治に陥りやすい危険性を常に持っているので、衆愚的な政治家を引っ張って、速やかに「民意」に落ち着かせる、そのような大リーダーが必要であることはいうまでもない。大リ−ダーは、人柄がよく、先行きが見えて決断が早く、そして結果について責任の取れる人である。今西錦司が言うように、人柄、洞察力、責任が大リーダの条件だ。国民の目から見て決めるべきはさっさと決めてほしいのである。小田原評議をしていても始まらない。そして失敗したときは責任を取ってほしい。

 ポピュリズム(大衆主義)は、必ずしも理想的な姿ではないが、現在のところ、積極的に肯定できる社会思想である。私は、政治も進化していて、ようやくにしてこのような良い政治になったと考えている。これからも進化しつづける。しかし、現時点で言うと、政治は良い姿になっていて、プラトンのいうような「哲人政治」は時代に逆行した「カビの生えた遺物」でしかない。

 リチャード・セネットというアメリカの社会学者がいる。1943年シカゴ生まれ。リースマン、エリクソンらに師事し、20代半ばから都市論などを発表し注目を浴びる。73年よりニューヨーク大 学教授を務め、同大学人文学研究所を設立。現在はマサチューセッツ工科大学(MIT)およびロンドン経済学校(LSE)教授としてロンドン在住。小説も発表し、プロ級のチェロ奏者でもある。彼は、著書「不安な経済/漂流する個人―新しい資本主義の労働・消費文化」(翻訳者森田典正、2008年1月、大月書店)の中で、次のように言っている。すなわち、

『 私の主張の要点は人々の怠惰にあるのではなく、人々に職人的思考を難しくする政治的風潮を経済がつくりだしたということにある。「柔軟な」労働を中心にして築かれた組織において、何かに深くかかわることは、労働者をうち向きなものに、あるいは、視野の狭いものにすると恐れられる。くりかえしていえば、ある特別な問題に必要以上の興味を覗かせる者は、能力判定を通過しない。いまや、科学技術自体が関与を求めないのだ。』
『 「組織のフラット化」「短期的価値の追求」といった「グローバリゼーション」に伴う一部の先端的な企業のあり方が広く「社会の趨勢」とされ、「プロテスタンティズム」と衝突し、コミットメントが軽視され、政治でさえも商品のように消費されるようになった、ということだろう。「関与を求めない」の意味するところがどこにあるか分からないが、科学もまた、そうした「短期的価値の追求」に染まっている部分はあるだろう。科学者も同じ社会に生きているのだから、当然それに影響される。問題はこの次にコミットメントの復権、職人的価値の復活が「来る」のかどうかである。』
『 人々はウォルマートで買い物するように、政治家を選択してはいないか。すなわち、政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われていないか。そして、政治世界の消費者が陳列棚の名の知れたブランドにとびつくとすれば、政治指導者の政治運動も石けんの販売宣伝と変わりないのではないか。』・・・と。

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