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2014年9月15日 (月)

霊魂の哲学と科学(その61)

霊魂の哲学と科学(その61)
第8章 「神」はどこに存在するのか?(1)
第1節 天におわす「外なる神」(1)

 ラカンという人がいる。精神科医であり、哲学者でもある。彼の考えを私流に一言でいえば「言葉では真実を語れない」ということになる。だから,私は,音楽や芸術が必要だと思うのだが,そのことを理解するにはラカンを勉強する必要がある。しかし,ラカンの哲学は非常にむつかしい。ラカンの哲学を勉強するには中沢新一の著書「カイエソバージュ・神の発明」を勉強するのが良い。ここでは言葉ではなかなか語ることのむつかしい「神」の話をしておきたい。

「神」には,キリスト教やマホメット教などの宗教でいう「神(ゴッド)」や「アッラーの神」などの他に、インディアンがいう「グレートスピリット」というものがある。
そのほか村上和雄がいうサムシンググレートというのがある。直訳すると「偉大なる何者か」だが、村上和雄は科学的立場から「生物の進化に影響を与えた人智を超えた存在」のことをこのように呼んでいる。

 「天は自ら助く者を助く」「天は人の上に人を作らず」「天の声」とか,「天」という言葉がよく使われるが,「天」は東洋思想の世界観が生み出した概念であって、上記の言い方とは立場が違う。「神(ゴッド)」や「アッラーの神」も、「グレートスピリット」も,サムシンググレートも、「天」ないし「天の神」も・・・宇宙に存在する「外の神」である。私は、神には「外の神」「内の神」があると考えている。
「内なる神」は,脳の中に存在する神で,中沢新一のいうスピリットがそうである。スピリットはいつもどこかに隠れて表に姿を出さないが,何かの拍子に表に姿を現す。その姿はその都度違っている。山の神,水の神,火の神,道祖神などがそうである。姿を現さないけれど心に感じることがある。トイレの神様などがそうである。

諏訪神社の御柱(おんはしら) や伊勢神宮・出雲大社の心御柱(しんのみはしら)は,まあ神のようなものと考えて良い。私はその源を縄文時代に遡ると考えている。三内丸山遺跡など多くの縄文遺跡に立てられていたとされる巨木はその実例である。そもそも「柱」とは,「神の通う道」のことであって、神そのものではないが,神聖視されるうちに神のようなものになったのであろう。その源をさらに遡ると結局は「石棒」に辿り着くのではないかと考えている。道祖神の源は「石棒」である。

猿田彦神社の心御柱(しんのみはしら)は、「神の通う道」であるが、それが神格化して猿田彦になったようである。猿田彦は導きの神とされて道案内の神としてまつられている場合も少なくないが、これは本来「神の導き」のことである。「石棒」を源とするこれらの神は、まあいうなれば「内なる神」に分類されるだろう。「外なる神」でないことは確実だ。

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