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2014年9月14日 (日)

霊魂の哲学と科学(その60)

霊魂の哲学と科学(その60)
第7章 怨霊と御霊信仰(6)

20、菅原道真は藤原時平の陰謀により太宰権師として九州に左遷され二年後に没した。翌年は疫病、雷電、旱魃と、都は災害に見舞われ、延喜五年(906)には、天に異変が起こったという。月食と同時に大彗星が現れ、十日以上も空にあった。道真を九州に追いやった時平のその後の運命は惨憺たるもので、家系も絶えてしまい、930年には平安京内裏の天皇の居所であった清涼殿に雷が落ちる。道真の死後39年を経て、京都右京区に住む多治比文子に神託があった。道真が祀られたい場所を告げたという。それが現在の北野天満宮の位置するところである。5年後に、近江の宮司の息子にも神託があった。そし
て、道真のために松樹を植えたが、一夜にして数千本の松が北野右近馬場に現れたという。そこに北野社を造営したが、結局文子は除外され、天台宗が寺の職務の中心を占めていくようになる。(中略)道真が御霊信仰の対象に選ばれていったのは、社会的影響と文化性、及び知性が御霊信仰に必要とされたからである。政治が欲する御霊信仰の本質は善悪論にはなく、「力」による。これは供犠なのだ。

21、藤原氏全般の絶頂であった道長の時代に、北野天満宮の信仰は国家的になっていく。すなわち藤原氏に反対した菅原道真の霊の輝きが藤原氏の盛運と平行して増していったという事実は、深く考えてみるべきところであり、そこに怨霊のもつ大きな歴史的意味があったと思われる。

21、菅原道真の霊に怨霊という言葉を使い続けることには賛成できない。寛弘9年6月25日の記録、「本朝文粋」には北野天神に御幣と種々のものを献じたことが書かれており、菅原道真を祀る信仰が盛んになったのは道真の霊が怨霊としてではなく、御霊と見なされていた可能性があるからだ。

22、御霊信仰に権力の媒介を見た小松和彦は、怨霊の選択が意図的であったことに注意を促している。
『怨霊の本体は予め定まっている訳ではない。しかし、まったく恣意的に選び出されている訳でもない。それは人々が期待しているものを満たすべく選び出されたものなのである。つまり、怨霊の正体を知った人々が納得するような怨霊が出現するのである。

23、明治新政府軍は奥羽諸藩を討つための祈願として、四国讃岐の坂出にある白峰に墓参した。天皇の勅使は墓前で天皇の宣命を読み上げ、崇徳上皇(1119~1164)の霊を迎え、京都の飛鳥井町に新しく作った白峰神社に祀った。白峰神社については、次の私のホームページが良いでしょう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/jyuonryo.html 

崇徳上皇は保元の乱(1154)で後白河天皇に滅ぼされた。皇室内部で起こったこの内乱は、崇徳上皇と後白河天皇の対立から発生した。一方、摂関家でも藤原頼長と忠道との対立が悪化し、崇徳と頼長側は源為義の軍を頼りに後白河打倒を図るが、平清盛、源義朝の軍が後白河側に付いたため、崇徳は淡路に流され、過去最大の怨霊になったと言われている。
崇徳が死後も仇敵を呪う姿が、名著「雨月物語」に描かれている。
http://www.youtube.com/watch?v=f2cq_UXGRRs

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