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2014年9月 8日 (月)

霊魂の哲学と科学(その54)

霊魂の哲学と科学(その54)
第6章 霊魂の科学(22)
第6節 霊魂と国家(11)
2、正義について(10)

(6)日本が「正義」ある国家となるために(3)

「平和国家」、プラトン流にいえば「正義ある国家」ということになるが私流には「平和国家」であるが、日本が「平和国家」であるためには、日本にはまだ成仏できない「霊魂」がうじゃうじゃいる。私は特に沖縄が気になる。私は先ほど、「 沖縄にも国直轄の御霊神社が必要である。」と申し述べたが、沖縄で死んでいった人たちの「霊魂」をなだめるための「国直轄の儀式」をまず真っ先にやらねばならないと思う。そして、次のような歌を聴くとき、死んでいった人の「霊魂」だけでなく、沖縄という土地そのものに宿る霊魂、すなわち「地霊」のことを思わざるを得ない。

https://www.youtube.com/watch?v=YZ-vhsASZDQ

さとうきび畑(作詞/作曲  寺島尚彦、昭和44年)

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ


今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

むかし 海の向こうから いくさが やってきた
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

あの日 鉄の雨にうたれ 父は 死んでいった
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

そして 私の生れた日に いくさの 終わりがきた
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

風の音に とぎれて消える 母の 子守の歌
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

知らないはずの 父の手に だかれた夢を 見た
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

父の声を 探しながら たどる 畑の道
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

お父さんて 呼んでみたい お父さん どこにいるの
このまま 緑の波に おぼれてしまいそう
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ けれど さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる

風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい
夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない


「さとうきび畑」は生きている。だから、「さとうきび畑」にも霊魂がある、否、「さとうきび畑」だけではない。沖縄各地の自然に霊魂がある、「自然の霊魂」が・・・。これは「ひろしま」にも言えることだ。否、「ひろしま」だけではない。全国各地だ。私は、戦争で亡くなった人びとの「霊魂」はもちろんのこと、「自然の霊魂」にも「祈り」を捧げなければならないと思う。
この本を書き終わるにあたって思うのは、そのことであり、この本では「自然の霊魂」についてほとんど触れていないことに気がついた。私は若い頃には随分山に行った。山の魅力に取り付かれていたし、「山の霊魂」にも感じ入っていた。そういう体験をもとに、稿を改め、「山の霊魂」について書きたいと思っているが、この本については、日本が真に「平和国家」になることを強く願いながら、この章を終わりたいと思う。


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