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2014年9月 7日 (日)

霊魂の哲学と科学(その53)

霊魂の哲学と科学(その53)
第6章 霊魂の科学(21)
第6節 霊魂と国家(10)
2、正義について(9)

(6)日本が「正義」ある国家となるために(2)

私は、教育もさることながら、この「文化」を学ぶシステムというものを国はもっと大事にすべきだと考えているので、以下に、この問題について述べてみたい。

日本の場合、「文化」を学ぶ場合、いわゆる「達人の境地」に達するまでその奥は深く、その段階ごとに目標がある。その目標に向かって一歩一歩階段を登っていく。これこそニーチェのいう「力への意思」を体現していることになる。
私の電子書籍「書評・日本の文脈」でも紹介したが、内田樹は、『 レヴィナスの本を読んでいて僕がいちばん「来た」のは「始源の遅れ」という概念です。僕はここに日本における「道」の概念に通じるものがあるような気がしたんです。たぶん。「 道」というのは、自分が起源ではなくて、「自分は遅れてここに参入した」という自覚から始まります。偉大な流祖がいて、その人が天狗とか武神とかに夢の中で出会って天啓を得て発明した巨大な体系がある。僕たちその道統に連なるものたちはそのいちばん末端の、初心のところから修行を始めて、しだいに複雑で高度な術技と心の持ち方を体得してゆく。でも、どれだけ修行しても先人の達した境位には決してたどりつくことがない。最後は「夢の中の天狗」ですから、無限失点みたいなものです。終着点には到達できない。でも、そのことは少しも修行のさまたげにならない。この「すでに遅れて参入して、決して起源には遡及(そきゅう)できない」という枠組みは学習する装置としてはきわめてすぐれたものじゃないかと思います。ユダヤ人と日本人は、かたちは違うけど、社会集団が生きていくために必要な生存戦略として、こうした態度や考え方を採用してきたんじゃないかな。』・・・と言っている。

 内田樹が「道」(武道や芸道)というものを「始源の遅れ」という概念と繋げて考えている、その考え方は面白い。きわめて重要な考え方である。偉大な流祖は多分こう言うのだろう。「夢の中の天狗はたしかに存在する。疑う事なかれ!人間社会には穴が開いていて、夢の中の天狗はその穴のなかにあるのであなたたちには絶対に見えない。見えないがあなたたちは穴の中に入ってきてそれを見る努力をせよ。そして、夢の中の天狗があなたたちに何を望んでいるか、それを考えよ。夢の中の天狗を怒らしてはならない!夢の中の天狗は「道」の奥義を教えてくれる存在そのものである。疑う事なかれ!」となるのではなかろうか。これは、「始源の遅れ」の概念そのものであり、ユダヤ教の原点、つまりヤーウェの宣言そのものではないか。「道」を究めるということはそういうことである。

ネットサーフィンをやっていたら、次のページが見つかったので、参考のためここに紹介させていただく。
http://akibe.tripod.com/nipponwokanngaeru.html(1998/6/17掲載)
「道」の文化:日本(政府刊行物新聞1985/10)

 十月十日は体育の日、東京オリンピック大会開催の日に因んで昭和41年に設けられたものだ。十月は暑からず寒からず、確かにスポーツには絶好のシーズン。大いに楽しみたいものだ。
(中略)
 ところで、この柔道という名称が示すように日本育ちのスポーツや芸ごとの多くにこの「道」という言葉が つく。剣道、弓道、合気道、空手道、棋道、華道、茶道、香道、書道、画道、歌道・・・、そしてこの「道」がつくと、とたんに、それを通して精神修養を図る という意味合いが付加される。呼名に「道」の付いていない外来のスポーツであっても日本人は本能的には、この「道」という言葉が付いたものとして受止めて いる。炎暑の中で行われる夏の甲子園大会を見れば、やはりそこには野球道というものがありそうだ。サッカー道、バスケット道、バレー道、どのスポ一ツにも 「道」をつけても、およそおかしくないように思える。
「道」がつくと、そこは真面目な人生の生き方の探究の場になる。不真面目は許されない。楽しみよりは、苦 しみこそが求められなければならない。苦しい血の滲むような練習こそがふさわしい。笑えるようではまだ甘い。それに一度その道に入れば、その道一筋、道を 極めるまで頑張らなければならない。柔道部に席を置く一方、バレー部にも手をだすような二股をかけたり、二兎を追ってはならない。
 精神修養の場である以上、教師あるいは師匠には、ひたすらへりくだっ教えを乞わねばならず、師に反発し たり、師の用いない技を用いたりしてはならない。弟子は弟子らしく、謙虚でなければならない。先輩後輩の序列は頭に叩きこんでおき、兄弟子は常に尊重しな ければならない。従って、練習の場は道場とよばれ、神聖視される。本番は真剣勝負の場、勝って泣き、負けて泣く。これこそ人生の道そのものであり、人生修 養の場でなくてなんであろう。観衆もそこに人生の縮図を見て感激する。
 「みち」は、道、途、路などと書き、人が歩く道だけの意味でなく、抽象的には人生行路、人間の進むべき 道、さらには、真理といった意味で用いれられる。これは、日中共同している。しかし、芸ごとや武術に「道」をつけることは、中国ではしない。書道は書法、 空手道は拳法といい、法は方法・技法の意味だ。それだけ日本人のほうが、スポーツや芸ごとにも生真面目に取組んでいる様にみえる。単なる技術より、精神面 や「芸」を尊重し、その一方で合理性や科学を軽んずる面がある。
 日本の道は、網の目状に張り巡らされた「あらゆる道はローマに通ず」という道ではない。石畳の道ではな く、放っておくとたちまち雑草に覆われ消えてしまう道だ。雨に流され土砂に埋もれてしまう道だ。山地の多い日本の道のことゆえ、次第に高く昇っていき、奥 山へ消えていく道無き道こそが日本人にとっての道のイメ一ジと言ってよい。どこへ達するかは分らない。それゆえ脇見もふらず、その道一筋に極めなければな らないのだ。一度道を外したり、迷ったりしたら目的地に着けないばかりか、それこそ、行き倒れにもなりかねない。
 そういう高きに昇っていく道のイメージを反映してか、柔道にしても剣道にしても、また棋道にしても技量向上の目安に「段」を用いている。一段一段高く昇っていき、その道を極めるところに人生の意義があり、人生そのものが集約されると考えるのだ。

 こうした道のイメージが、今もって日本人のスポーツ観には付纏っている。従って、大きな大会になればな るほど、人生の大事という意識が前にでて、たかがスポーツ、楽しく伸び伸びやろうぜ、とはいかず、期待を精一杯背負いこんで頑張る。そこで堅くなり、上 がってしまう。その結果、たかがスポーツ派の外国人に負けてしまう。
 弓道や華道や茶道など、およそ「道」の付くものには様々な流派や家元が存在し、それぞれの他の流派から 没交渉でその流派なりの技を磨く。華道だけでも約3千の流派があるという。つまり、本道から脇道へ脇道へと限りなく細分化していき、奥山へ奥山へとわけい るようなものだ。だから、他の道と決して交わらない。各家元が独自性を装う結果、役柄の名称の様な技術的抹消的な差異が重要視され、本道が見失われやすく なる。一度ある流派に入門すると、他の流派に鞍替え出来ないのみなちず、師匠の使う花屋の花や道具屋の道具を使い、師匠の教える技術のみ使うよう拘束さえ 受ける。次第に技術の互換性は失われ、情報を交換して、技術を磨きあうことなど出来なくなる。違う流派の人と付きあうことすら禁じられる。
(以下省略)

私は、日本の家元制度は、 国民の「文化」を学ぶシステムとしては実に素晴らしいと考えている。師匠のまねをしながら、技を磨いていくと、次第次第に自分の「魂」が成長していくのを感じる。良い「霊魂」は子々孫々まで良い影響を与えるのである。「正義」ある国家とはそういう側面ももっている。私はこのことを強調したい。今は低落傾向にある日本の家元制度をなんとか盛り返したい。

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