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2014年9月20日 (土)

霊魂の哲学と科学(その66)

霊魂の哲学と科学(その66)
第8章 「神」はどこに存在するのか?(6)

第4節 神の国の神々

以上に紹介したように、神の国には、いちばん偉い神つまり最高の神、それは超越神とか唯一絶対神と呼ばれることもあるが、そういう最高の神がいて、その下にいろいろな神がいるという考えがある。「エゾイタチの神」の作者もゲーテもそういう観念を持っているのだが、どうでしょう? 私たちは、一般的にそういう観念を何となく持っているのではないでしょうか? 少なくともかの偉大なゲーテがそういう観念を持っていたということは、やはり重く受け止めて良いように思われます。そういう神の国の構造を科学的に証明することはできないけれど、リズム論というか波動論あるいは霊魂論の立場から、一つの科学的仮説ないし哲学的仮説として考えてい良いと、私は考えたい。波動論的に神の国の構造を多重構造と考え、それを前提として、私は怨霊が神の仲間入りをする、その転換(変身)がどのように行われるのか、そのことを説明したいと思う。
私は、電子書籍「祈りの科学シリーズ(8)」「平和国家のジオパーク」の第6章で、「言霊」について書いたように、言霊の力というのは確かにある。言霊の力に対する認識は、天孫降臨以来、受け継がれる日本古来の伝統でもあり、正しい心で正確に使用する事によって、「ことだま」が自然発動的に存在する全てを生かし、「ことかえ」が行われ、より善良で高度な精神性がもたらされるとされてきたが、近代では、梅棹忠雄が言うように「ヨーロッパ人が言語的心霊主義者であるとすれば、日本人は、言語的無神論者である。」のかもしれない。ゲーテは「言霊」の力を十分認識していたようである。ゲーテの「ファースト」はドイツ語で声を出してこれを読むと確かに魂に響くと言われており、ゲーテは、そのことを十分認識した上で、「ファースト」という戯曲を書いたらしい。梅棹忠雄は「現代の日本人にとっては、言語をどのようにもてあそんでも、たたりもなく、害もない存在である。俳句のような言語遊戯が、民衆の、もっともポピュラーなあそびとなるゆえんである。俳句は、とにかくにもひとつの詩であろうが、そこには、詩神のやどり場所もない。」と言っているが、私たち日本人も、古来の伝統に立ち返って、「言霊」というものをもっと重視した方がよい。
さあそこで、ここがもっとも私の言いたいことだが、御霊会において空海をはじめ、特別の修行をおさめた密教僧によって、怨霊に対して特別の祈祷が行われたのだが、その祈祷というものは、「言霊」の特に強力な力に有していたのではないかと思う。
密教僧の発信する「言霊」、これは密教僧の発信する波動(リズム)であるが、その波動(リズム)によって、怨霊の持つ波動は、徐々に共振(共鳴)しはじめて、最終的には、もともと持っていた波長が変化するのではないかと思う。その変化が、ブロックの言う「転換」である。
悪魔にもいろいろな悪魔がいる。「ファースト」に登場するメフィストはその中でもましな悪魔である。ましな悪魔は、神の園に入ることが許されており、最高の神と話をすることを許されている。本来の悪魔は神の園に入ることを許されておらず、悪魔の国に閉じ込められている。ひとつの集合体が形成されている訳だ。しかし、本来の悪魔、それは怨霊のことだが、そういう本来の悪魔も、密教僧の発信する「言霊」によってメフィストのような「ましな悪魔」に変身し、その後も、人々が神として「祈り」を捧げているうちに、神、もちろん唯一絶対神の配下の神であるが、神へと変身する。怨霊から「ましな悪魔」に、そして「ましな悪魔」から「神」へと二段階を経て変身していく。

このようなことは科学的に証明できることではなく、ただ単に、怨霊とか御霊信仰についての科学的な説明を進める上での仮説だとお考えいただきたい。私はこれを怨霊仮説と呼びたい。
神の国には、本来の神のほかに、人々の「祈り」によって普通の死者が変身した神と、特別の祈祷と人々の「祈り」によって怨霊が変身した神がいる。このような神の国の構造を考えないと、怨霊とか御霊信仰の科学的な説明ができない。

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