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2014年8月12日 (火)

霊魂の哲学と科学(その28)

霊魂の哲学と科学(その28)
第5章 霊魂の哲学について(21)
第7節 活動存在としてのさまざまな神(1)

1、絶対神

私の言う絶対神は、厳密には「唯一絶対神」と言うべきかもしれない。私はその時々において、絶対神と言ったり、超越神と言ったり、唯一神と言ったりしてきた。それらは、厳密には、唯一絶対神(ゆいいつぜったいしん)と言うべきであったかもしれないが、少しでも短い単語の方が言いやすいので、絶対神とか超越神とか唯一神とか、はたまた創造主と言ってきたのだ。厳密には「唯一絶対神」である。唯一絶対神は、唯一神教で信仰される神のことである。一般に言われる一神教は他の神々を前提にしている場合もあり、必ずしも一神教=唯一神を崇拝する、とは限らない 。アブラハムの宗教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教などで信仰されている、アッラーフ、ヤハウェ、あるいは一般名詞で「神」と呼ばれ、その信仰のあり方は、宗教、宗派によって様々だが、父性を基調とし偶像崇拝を禁じるなど、共通点も多い。これは元来、これらの宗教が同一の起源から派生したものであるからである。
なお一神教では、信仰する神のほかに神はないため、元来自らが信仰する神をわざわざ「唯一神」と表現することは無かったが、多神教地域への布教や 文化交流とあいまって、神学上の比較分析的な意味で、または単純に広報的な意味で、昨今では一般信者や外部向けの説明で「唯一神」や「唯一絶対の神」など という表現が用いられる機会も増えている[要出典]。
一神教の例としてユダヤ教、キリスト教、イスラム教がある。
いずれも、旧約聖書を経典とし、同一の神を信じている。ユダヤ教においてはモーセの時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられたとされる。ユダヤ教を元に、イエス・キリストの教えからキリスト教が誕生し、さらにムハンマドによってイスラム教が生じた。
これらは一神教ではあるが、絶対神以外にも人間を超えた複数の知的存在としての神々がいることを認めている。天使がその代表例であり、人間以上だが絶対神以下の存在である。絶対神はその姿を変えるということはしないけれど、天使はある時は普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。「神の働き」は絶対神およびその他の神々だけが行うことができ、天使などその他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。聖母マリアへの崇敬も、厳密には敬愛であり、少なくとも教義上では区別している。聖母マリアはお願いをイエス・キリストに伝えてくれる存在ではあるが、神と同等の存在ではない。
またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護したり、特定のご利益をもたらすとするという信仰がある。ただし、キリスト教のなかでもカトリックなどは聖人崇敬を行っているが、プロテスタント諸教派のなかには聖人崇敬を行わない教派もある。また、聖人崇敬を行う教派であっても、崇拝する対象はあくまでも神であり、神ではない聖人は崇敬の対象であり崇拝の対象ではない。イスラム世界ではジンという人間と天使の間に位置する精霊が想定されている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプのジンが有名)。
実際、一神教内部においても例えばインドの ように多神教を信仰している人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば 行なわれる。無論一神教と多神教が両立不可能かというのは個々人の解釈にもよる問題であり、成文化された教義と現実的な宗教行為が齟齬することも多く、宗 教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。

ニーチェは、キリスト教の「神は死んだ」と言ったが、それはキリスト教の絶対神だけでなく、キリスト教におけるすべての神々が死んだと言ったのだ。ニーチェは、ゾロアスターという絶対神に憧れをもっており、ゾロアスターのドイツ語のツァラトゥストラを登場させ、ツァラトゥストラをしてニーチェの哲学を語らせたのである。シバ神の影響でゾロアスターが誕生し、ゾロアスターの影響でディオニソスが誕生した。それらは根源的にニーチェの憧れる絶対神である。

中沢新一の穴の論理は非常に面白い、かつ、大事な論理であると思う。シナイ山でモーゼはヤーウェという絶対神から「十戒」(石版)を受け取ると同時に「わたしはある。わたしはあるという者だ。」という声を聞く。

 ここでは、「ある」という存在するという意味の動詞として使われていると同時に三人称使役形としても使われているらしいので(「キリスト教の歴史」小田垣雅也、1995年5月、講談社)、ヤーウェの言っていることを私流に解釈すると、「私はたしかに存在しているのだ。疑う事なかれ!人間社会には穴が開いていて、私はその穴のなかにいるので人間には絶対に見えない。私の存在を感じるだけだ。疑う事なかれ!絶対神である私とはすべての在るものを在らしめている存在そのものである。疑う事なかれ!」となる。
 しかし、ユダヤ的解釈は、「私はたしかに存在しているのだ。疑う事なかれ!人間社会には穴が開いていて、私はその穴のなかにいるので人間には絶対に見えない。見えないがあなたたちは穴の中に入ってきて見る努力をせよ。そして、私があなたたちに何を望んでいるか、それを考えよ。私を怒らしてはならない!絶対神である私とはすべての在るものを在らしめている存在そのものである。疑う事なかれ!」となるのではなかろうか。

ところで、内田樹は、「日本の文脈」(2012年1月、角川書店)における中沢新一との対談の中で、ユダヤ文化の本質的な構造について、次のようなことを言っている。すなわち、

『ユダヤには「脳の機能を活性化する」構造がある。例えば、ユダヤ教においては、常に「中心が二つ」あって互いに真剣な議論がされている。タルムードにはエルサレム版とバビロニア版の二つのバージョンがあるし、タルムードを研究する学院も二カ所あり、同時代に必ず二人の偉大なラビが出てきて、おたがいに激烈な論争をする。だから、一つの結論に落ち着くということがない。ユダヤ教の聖典であるタルムードは「増殖する書物」なんです。』・・・と。

以上、絶対神の本質についてその核心部分を述べたが、その詳細については、私の電子書籍「書評・日本の文脈」に書いたので、是非、それをご覧戴きたい。
http://honto.jp/ebook/pd_25249964.html

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