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2014年8月27日 (水)

霊魂の哲学と科学(その43)

霊魂の哲学と科学(その43)
第6章 霊魂の科学(11)
第5節 私の霊魂論(4)

3、霊魂論:プラトンと私の違い(2)

(3)「霊魂」による説明

私は、私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(1)」の「<100匹目の猿>が100匹」でやや複雑な説明したが、ちょっとややこしかったかと思うので、ここでは私の「霊魂論」にしたがって説明をやり直したい。その方がすっきりした説明になるかと思う。
のちほど第6章で説明するように、天空には神の領域と悪魔の領域がある。そして、ここが大事なところであるが、私たちの身体に存在する霊魂は、常に新たな要素が加わって、全体としては成長していく。良い魂に変化していくか悪い魂に変化していくかは、その要素次第であって、日常生活において、できるだけ徳を積むように心がけていれば良い魂が加わっていくし、非道徳的なことをやっておれば悪い魂が加わっていく。

私は、電子書籍「祈りの科学シリーズ(1)」の「「<100匹目の猿>が100匹」で「外なる神」の説明をしたが、これは「祈り」に焦点を当てていたために、神の領域におわす神のことを言ったまでで、実は、「外なる悪魔」も天空には存在するのである。私たちが死んだのちに神の国、これは神の園という言い方もあるが、そのような神の国に住むことができるかどうかは、私たちの魂が最終的にどのような魂に変化しているかどうかにかかっている。生きている間に存在する霊魂、これは身体の霊魂ということだが、良い霊魂の要素と悪い霊魂の総体である。どんな悪人の霊魂でも、その人が神を信じて必死になって「祈り」を捧げておれば、総体としての霊魂はいっきょに神の国に赴くことのできる良い霊魂に変化する。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや-」という親鸞の「悪人正機説」は、今述べた私の霊魂観の立場に立てば理解が容易であろう。要は、必死になって神に「祈り」を捧げるかである。
私は、「外なる神」と同じように、、電子書籍「祈りの科学シリーズ(1)」の「「<100匹目の猿>が100匹」で「内なる神」の説明をしたが、これは「祈り」に焦点を当てていたために、身体に存在する良い霊魂の要素のことを言ったまでで、実は、「内なる悪魔」も身体には存在するのである。
この総体としての霊魂は、天空にも存在している。身体の霊魂と同じものが天空にも存在しているのである。身体の霊魂と天空の霊魂。この二つの霊魂が響き合う、つまり共振するのである。魂は総体として常に成長している。それは基本的に日々の生活次第で良い魂になるのか悪い魂になるが決まるのであるが、どんなに悪い魂でも、必死に「祈り」を捧げていれば、総体としては、いっきょに良い魂に変化する。身体の魂が良ければ、天空の魂は神の園に存在することができるが、身体の魂が悪ければ、天空の魂は悪魔の国に迷い込んでしまう。天空の魂が神の国に住もうと悪魔の国に住もうと、身体の魂は天空の魂と響き合う、つまり波動として共振を起こすのである。しかし、ここで大事なのは、神の国に存在する天空の魂は神の波長と調和的で、悪魔の国に存在する天空の魂は悪魔の波長と調和的である。身体の魂が悪いと悪魔の付け入る隙があって、その人間はいろいろと悪質なことをやらかすのである。私たちは、ゆめゆめ悪魔の付け入る隙を与えてはならない。自分で関心できなと思う生活が続いたときは、猛反省をして神に「祈り」を捧げなければならない。けっして傍若無人な生活をしてはならないのである。

さて、「100匹目の猿現象」であるが、天空での頑固猿の霊魂が発する波動、その波動が、形態形成場という「場」の見えざる力によって,99匹の猿に強い影響を与えたのである。この作用は,時間と空間を超えて作用する。子供の猿の芋洗い状況を頑固猿は何度も見ている。その「記憶」は頑固猿の脳に保存されている。芋洗い状況に応じた波動特性が保存されている。ついに頑固猿はまねをする勇気ある決断をする。それによって頑固猿の天空の魂と地上の魂との共振が起こる。そして、頑固猿とすでに芋を洗っている猿たちとの響き合いが発生するのである。ということは、天空には芋を洗っている猿たちの霊魂がいるから、頑固猿はそれら霊魂との響き合いもやっていることになる。「地上の波動と宇宙的な霊魂の波動との共振」が起こっているのだ。「地上の波動と宇宙的な霊魂の波動との共振」、この共振現象は広域にわたって引き起こされるので、海を隔てた他の島の猿にとって外部からの刺激となる。それが猿の「意識形成場」に作用し、他の島の猿にも芋を洗おうとする「意志」が発生するのである。
 ペルシャ猫シュガーの不思議について。飼い主の宇宙的な霊魂が発する波動とシュガーが発する波動はとも共振を起こすので,共振波動がやってくる方向に向かって進んで行けば良いのである。パーキンスの鳩の場合も同様だ。「波動の共振」には強弱があるので、弱い場合は人間はそれを受信することはできない。しかし、猫や鳩は独特の進化を遂げており、弱い波動でも受信できる独特の能力を持っている。猫や鳩は人間の「願い」や「祈り」を理解することができる。脳の中で起こる「波動の共振」は、要するに、発信側の能力と受信側の能力が関連して、強弱がある。直観の働く人は、発進力も受信力も強い。念力の働く人も同様である。だから、私たちは直観がはたらくよう訓練すると良い。座禅やヨガも良いかもね。

 「100匹の猿現象」と同じ現象が「祈り」の場合にも起る。つまり、祈りによってある刺激が脳に起り,その振動に応じて「波動の共振」が発生する。シェルドレイクの「形態形成場」という「場」において、天空の神が人びとの願いを聞き入れて発する波動、それは「さよう、さよう」と肯定するだけのものだが、そういう神の発する波動と、地上にいる人の霊魂とが共振を起こすのである。人の霊魂というものは、神の「さよう、さよう」という声を聞くことができるのである。そう考えれば、「祈り」の不思議な効果も科学的な理解が容易であろう。
もちろん、怨霊など悪魔の発する波動とも人の霊魂は共振を起こすので、いわゆる「牛の刻参り」の不思議な効果も科学的にあり得る。しかし、自分の魂をいい状態に保つためには、ゆめゆめ「牛の刻参り」などはけっして行ってはならない。人間は、できるだけ神と自分の魂との交信をやって、常に魂の保全を図らなければならない。

最終章で述べるように絶対神は天のいちばん高いところにいる。それは多分宇宙のはるか彼方であろう。だから、そこから見れば、地球なんてものは極めて微小なものであり、そこから発信される波動は地球上のいかなるところにも、共時的に届く。波動現象が共時的であることは、しっかり頭に刻んでおいて欲しい。
プラトンは、「100匹目の猿現象」などの科学的事実を知らないし、近年の量子脳力学のことは知らない。したがって、私のいう「霊魂の系統発生」ということは知る由もない。

プラトンは「コーラ」の重要性を知っていたが、オギュスタンベルクの到達した「風土論」の水準までは達していない。私は、オギュスタンベルクの考えに付け足して、『「風土」とは「その土地に生きてきた地域の人々の「生きざま」がしみ込んだもの」をいう。』・・・と今まで言ってきたが、そういう言い方は、私の霊魂論からは科学的ではないので、今ここで、『「風土」とは、その土地に生きてきた地域の人々の、天空に存在する「魂の趣」と言い代えたいと思う。すなわち、私は、オギュスタンベルクのいう「自然の趣」「歴史の趣」のほかに、そういう人びとの執念というか「魂の存在」を考えているのである。私たちが心してその土地に立てば、私たちの「魂」は、今までそこに生きてきた地域の人々の「魂」との「響き合い」が起こる。「地霊」とはそういうものである。

人びとの祈りに対して、「さよう、さよう」と驢馬がいななくように、神もまた、「さよう、さよう」と頷(うなず)くのである。実際に声を出すかどうかはしらないけれど、念波は間違いなく発信される。それは、波動として共時的に相手に届くのである。

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