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2014年8月28日 (木)

霊魂の哲学と科学(その44)

霊魂の哲学と科学(その44)
第6章 霊魂の科学(12)

第6節 霊魂と国家(1)

プラトンは、その著「国家」(藤沢令夫訳、1979年4月、岩波書店)で、彼の霊魂論を踏まえながら国家論を展開しているが、プラトンの基本的な思想は、『国家は、「知恵」があり、「勇気」があり、「節制」をたもち、「正義」をそなえていなければならない。』というものである。そういうプラトンの基本的な思想を踏まえ、以下において私の国家論を述べていきたいと思う。

1、国家について

プラトンの霊魂論と私のそれとの違いは、すでに述べたように、「生霊」と「地霊」というものに対する認識の違いだが、私は、「生霊」と「地霊」の存在を重視している。それを一言でいえば、「魂のふれあい」である。この「魂のふれあい」というのは、すでに述べたように、共時的に起こる。多くの国民の中には、現在および過去において、「知恵」がある人とか、「勇気」がある人とか、「節制」があるひととか、「正義」がある人とか、素晴らしい人はいる。国家の指導的立場にある人は、そういう人たちの「魂」と響き合わなければならない。「魂の響き合い」があれば、何かの目標に向かって、自分を奮い立たせることができる。地域には、歴史的に、偉大な人というものはいるものである。そういう地域の偉人と響き合わなければならない。また、全国には、自分の生き方に何かヒントを与えてくれる素晴らしい人がいる。そういう人と響き合うことができれば、自分の生き方を変えることができるかもしれない。要は、「魂の響き合い」だ。

さあそれでは、以上に述べたプラトンの霊魂論と私のそれとの違いを明らかにした上で、私の国家論を以下に述べていきたい。

私もプラトンがいうように、『 国家は、「知恵」があり、「勇気」があり、「節制」をたもち、「正義」をそなえていなければならない。』・・・と思う。まず、「知恵」のある国家とはどのようなものか? 
農業や金融など産業の技術あるいは財政や国土政策などに関わる技術に長じた国家というのも大事だが、もっと大事なのは国を守る、つまり国民の命と財産を守るための「知恵」である。農業や金融など産業の技術あるいは財政や国土政策などに関わる技術は知識であるが、国民の命と財産を守るためのものは、知識と呼ぶより、「知恵」と呼ぶべきである。プラトンはそういっているのだが、私もそう思う。
国を守る、つまり国民の命と財産を守るための「知恵」を有している指導者はごく少数である。したがって、国家としてはそういう指導者を大事にし、またその育成に努めなければならない。「知恵」のない人が「知恵」のある人を支配すると国は危なくなる。

二番目に、「勇気」ある国家とはどのようなものか? 
「勇気」は、教育によって生ずるものであり、動物がもっているような勇気はあまり永続的なものでないと、プラトンは言っているが、私もそう思う。だから国家の防衛にあたる人に対しては、国家が責任を以て、音楽・文芸と体育によって教育をしなければならない。防衛大学がそのようになっているかどうかは少し怪しいが、私は、一般的に、小学校や中学校や高等学校の時代から、音楽・文芸と体育による教育がしっかり行われていれば、国民の中に勇気ある人が増えて、防衛大学においてもさらに効果のある教育が行われるようになると思う。私は、武士道の再評価が必要であるし、あらゆるスポーツの振興が必要であると思うが、日本の伝統的な音楽や文芸についても、日本文化の再評価という観点から、その教育がしっかり行われる必要があると思う。教育によって日本文化の深い認識が身に付かないと、国家のために死ぬなどという「勇気」はとうてい湧いてこないと思う。

次に、「節制」ある国家とはどのようなものか?
プラトンも言っているが、「節制」とはさまざまな快楽や欲望を制御することである。一般的な言い方でいえば、「節制」とは、「己に克(か)つ」ことである。それは、その人の内なる魂の優れた本性が劣った本性を制御するということであって、結局、魂の問題である。先に「魂の響き合い」ということを申し上げたが、「神との響き合い」(祈り)だけでなく、死んだ両親とか祖父母などの助けを借りないとなかなか「己に克つ」ということは難しい。「己に克つ」ことのできる人は極めて少ないが、私たちはそのための努力ぐらいはしなければならない。私は、「祈り」ぐらいなら誰でもできると思う。ここでいう「祈り」とは、神への「祈り」だけでなく、死んだ両親とか祖父母などの「霊魂」に、「何とか己に克(か)てるよう助けてください」・・・と強い願いを念ずることだ。そうすればニーチェのいう「力への意思」が働くであろうし、森岡正博のいう「転轍」が起こって、私たちは「己に克つ」ことができるかもしれない。よしんばそれができなくても、諦めずに何度も何度もそういう「祈り」の生活を続けていれば、やがては「己に克つ」ことができる人間に成長するだろう。

プラトンは「節制」について次のように言っている。
『 「勇気」と「知恵」の場合は、どちらも国家のある特定の部分のうちに存在することによって、一方は国家を知恵のある国家とし、他方は勇気ある国家にするということだが、「節制」はそうではない。それは国家の全体に、文字通り弦の全音域に行き渡るように行き渡っていて、最も弱い人びとにも最も強い人びとにも、またその中間の人びとにも、完全調和の音階のもとに同一の歌を歌わせるようにするものなのだ。』・・・と。

だから、私は「祈り」というものの重要性を訴えているのである。
http://honto.jp/ebook/pd_25231954.html

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