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2014年8月 8日 (金)

霊魂の哲学と科学(その24)

霊魂の哲学と科学(その24)
第5章 霊魂の哲学について(17)

第5節 神の対極的存在が悪魔か?

神は人を罰することがあるか? まずそのことを考えてみたい。
このことに関連して、私は、電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」の第2章「ツァラトゥストラの真骨頂」の中から、「驢馬(ろば)の祭り」の場面を紹介しておきたい。
『 鷲と蛇を相手に話し終わったとき、ふいにツァラトゥストラは、恐怖を感じた。今まで騒ぎとこう笑のあふれていた洞窟が、急に死の静寂にかわったためである。・・・そしてツァラトゥストラの鼻は、松の実でもこげているようなかんばしい香煙を嗅いだ。(中略)奇怪!奇怪!(中略)洞窟の客人・ましな人間すべてが子どもや信心深い老婆のよう
に膝まずいて驢馬(ろば)をおがんでいたのだ。その連禱(れんとう)は次のように聞き取れたのである。

アーメン! さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、勢いが、世世限りなく、われらの神に
ありますように!
・・・すると、驢馬は、それに応えて「さよう! さよう!」と嘶(いなな)いた。
われわれの神はわれらの重荷を負い、僕(しもべ)のかたちをとり、心から忍耐強く、決して「いや」と言われません。また、神を愛する者は、この神を懲らしめることになっています。
・・・すると、驢馬は、これに応えて「さよう、さよう」と嘶いた。

われらの神はお語りになりません。その創られし世界に対して、つねに「さよう、さよう」と言われる以外には・・・。このような神はその世界を讃えられるのです。口を開かぬのは、神の狡猾さであり、かくしてなかなかあやまりを犯さないのです。
・・・すると驢馬は、それに応えて「さよう、さよう」と嘶いた。

 われわれの神は目立たぬ姿で、この世を歩まれます。灰色のからだに、その徳をつんでおられます。霊力を持っておられても、これを隠しておられます。そのためすべての者がその長い耳を信じています。
・・・すると驢馬は、それに応えて「さよう、さよう」と嘶いた。

 われらの神が長い耳をお持ちになり、「さよう、さよう」としか言われず、決して「いや」と言われないことは、なんと深く隠された知恵でしょう! 神は世界を、おのれのかたちに似せて、すなわちできるかぎり愚かに創られたのではないでしょうか?
・・・すると驢馬は、それにこたえて「さよう、さよう」と嘶いた。(中略)
 あなたは幼子(おさなご)を近づけなさる。悪道どもがあなたを誘い出すときでも、あなたは無邪気に「さよう、さよう」と言われます。
・・・すると驢馬は、それに応えて「さよう、さよう」と嘶いた。(中略)』

 このあと「ましな人間」たちとツァラトゥストラとの深刻なやり取りがつづくのだが、この辺りは全部省略して、話の筋書きを追うこととする。ただし、新しい祭りとして「驢馬祭り」がきわめて重要だと何度もツァラトゥストラが言ったことだけは強調しておく。

ツァラトゥストラは「この夜とこの驢馬祭りを忘れなさるな」と言ったのである。
つまり、ニーチェは、ツァラトゥストラをして『 神は「さよう、さよう」としか言わないで、「嫌(いや)」とは決して言わないが、それは驚くほど深く隠された知恵である。』・・・と言わしめている。絶対神、唯一神とも言うが、そういう名で呼ばれる最高の神というのは、私たちのやっていることを見てけっして怒りはしない。最高の神というのはけっして人を罰することがないのである。人を懲らしめるのは悪魔の好むところである。悪魔は神の対極にある。「ファース」に登場する「ましな悪魔」はいい加減な人間に対し「いたずら」をする。私たちは最高の神から「さよう、さよう」と肯定してもらえる
ように、「神の御心に沿うように人生を生きていかなければならない。

 驢馬は、ご承知のように、「さよう、さよう」と言うように頸を振る。馬鹿みたいに「さよう、さよう」というわけだ。したがって、驢馬(ろば)は「肯定」のメタファー(暗喩)となっているのである。形而上学的には、これをディオニソス的肯定という。

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