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2014年8月 1日 (金)

霊魂の哲学と科学(その18)

霊魂の哲学と科学(その18)
第5章 霊魂の哲学について(11)
第3節 ホワイトヘッドの霊魂観(5)

3、抱握(1)

ホワイトヘッド哲学には、「連鎖的結合体」という概念のほかに、「抱握」というこれまた重要な概念がある。把握という言葉に近いが、把握というのは理性的に把握するものであり、「抱握」は感性的に把握するもので、両者を明確に区別するために、ホワイトヘッドは「抱握」という言葉を使いだした。「抱握」は感じることであり、「feeling」だと言っても良いかもしれない。ラカンの有名な言葉に、「言語で真実を語りきることはできない」というのがある。 人間の思考には、どうしても「真実を語りきれない空洞の部分」が残る。これがラカンの「トーラスモデル」だが、これを補うために芸術家の感性と
か老僧の悟りとか或いは今西錦司などいわゆる巨人の直観が重要になってくる。理屈を超えた感性が重要になってくるという訳だ。しかし、ホワイトヘッドのいう「抱握」というのは、必ずしも人間にだけ通用する概念ではなく、「活動的存在」すべてに通用する概念である。たいへん難しい概念だ。
中村昇は、その著「ホワイトヘッドの哲学」(2007年6月、講談社)の中で、ホワイトヘッド哲学における「抱握」について次のように述べている。すなわち、

『ホワイトヘッド哲学の中で、もっとも重要な概念のひとつに「抱握」がある。ホワイトヘッドは、この概念をこう説明している。
知覚(理解)するという言葉には、日常の用法では、認識把握という観念がどうしても入り込んでいる。把握という言葉も同様であり、認識的という形容詞がついていないときで
さえそうである。わたくしは、非認識的把握にたいして、「抱握」という言葉を使いたいこの言葉でわたくしが意味しているのは、認識的であり、またそうでないこともありうる把握だ。(「科学と近代世界」)』

『この世界の本当の姿である「抱握」とはどういった状態なのか、われわれの認識を例にして考えてみよう。
机の上にあるコップを知覚するとしよう。しかし、<それ>は、最初から「コップ」として存在している訳ではなく、もともとは、<何ものでもないもの>としてそこにある。そのような<何ものでもないもの>を、漠然とわれわれは受け取る。眼前の風景をまるごと受け入れるというわけだ。こういう受け取り方を、ホワイトヘッドは、「物理的な抱握」という。
次に、その何ものでもない、のっぺりした対象を、こちら側の都合で切り分ける。はじめてここで、何ものでもない<それ>が、特定の「色」や「形」をもつものとしてあらわれる。さらに、その「色」や「形」が、「コップ」として認識されるだろ。これが、「概念的抱握」だ。
もっと意識して、この事態を「あっ、コップがある」と言葉にすると、「命題として抱握」したことになるだろう。こういう段階を踏んで、対象が「対象として」こちら側に現れるのだ。
しかし、このような抱握の働きは、人間という「活動的存在」だけが行っている訳ではない。あらゆる「活動的存在」の中で生じている。というより、このような「抱握」の働きのみが、世界に充満していると行った方が良い。つまり、関係、「抱握」の複雑な網の目によって世界は満たされ、その網の目のところどころに、「活動的存在」という結節点があるということになるだろう。だが、その結節点は、生じると同時に消えるのだから、いわば「ない」に等しい。』

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