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2014年8月30日 (土)

霊魂の哲学と科学(その46)

霊魂の哲学と科学(その46)
第6章 霊魂の科学(14)
第6節 霊魂と国家(3)

2、正義について(2)

(2)「コミュニタリズム」と「ロールズの自由主義」との関係

私はここのところ、「権威と服従の問題」というテーマで、一連のブログを書いてきた。オオカミのごとく「尊厳」を生きることの重要性を訴えたつもりである。思いもよらずこれが正義論と繋がっていることが判った。第一回目から第六回目までの文章に題を付けて、今ここに改めて紹介しておく。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kenhuku.html

また私は、ジョン・グレイの「暫定協定自由主義」を「究極の自由主義と呼び、その考え方を勉強してきて、「私たちの感性でジョン・グレイの政治哲学を呑み込もう!」と主張した。ジョン・グレイの「自由主義」はロールズの「自由主義」を越えている。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyongu00.html

さらに、私はかなり前になるが、地域コミュニティの元気再生が日本の最重要課題の一つとの観点から、私なりの「地域コミュニティ論」を書いたことがある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/6jisanti.html
それを見ていただければ判るように、私は、「コミュニタリアン」である。マイケル・サンデルも「コミュニタリアン」であるが、ロールズの正義論を越えているのか越えていないのか? ところで、ジョン・ロールズの「自由主義」については、ジョン・グレイが批判するように欠陥があるが、ジョン・グレイは価値多元主義の立場からの批判であるので、それが直ちに「正義論」と繋がる訳ではない。「正義論」との繋がりをもってジョン・ロールズの「自由主義」を修正するには、「コミュニタリズム」とどう整合をとるか?マイケル・サンデルのやや欠けている部分をどう埋めるか? そこが大問題なのである。今ここで、私の考えを述べてみたいと思う次第である。

戦争は、できるだけ避けた方がいい。主義の違いで戦争をしたり、覇権主義にもとづいて戦争をするのは絶対に止めるべきである。日本は憲法第9条第1項を堅持すべきであるし、戦争になる前に話し合いに全力を傾けるべきである。しかし、相手からしかけられた時には、敢然と戦って相手に勝たねばならない。国家は、国民の生命と財産、そして国民の自由を守るために戦争に負けるわけにはいかない。どんな手段を使ってでも相手を打ち負かさなければならない。

私は、前に、「オオカミはもの凄い攻撃力を発揮しますが、相手が敵愾心を持って闘争を仕掛けてきた時にほぼ限るようです。すなわち、オオカミは、自分に敵愾心のない或は弱い動物に対しては、優しい心を持ちながら接するのだそうです。ここが肝心のところです。」と述べたが、
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-db66.html

「尊厳」を生きることの重要性を主張する私の立場からすると、人も国もオオカミのごとく生きなければならない。オオカミに学ばねばならない。

ジョン・ロールズの「格差原理」は、社会に不平等があってもいいが、その大前提として、もっとも不遇な立場にある人の利益を最大にする社会システムがなければならない・・・というものだが、この原理は妥当なものだと思う。

ウィキペディア等の教科書的な説明によると、彼は、正義の根拠を、社会契約説に立脚しながら、合理的な人々が、彼が「原初状態」と名付けた状態におかれる時に契約(合意)するであろう内容に求めた。この原初状態とは、社会の人々が彼のいう「無知のベール」に覆われた状態・・・すなわち自分と他者の能力や地位に関する情報は全く持っていない状態である。このような状態で人々は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく契約内容を合理的に選択するであろうと考えられ、おおむね同じ結論になると思われる。そして人々は、自分がもっとも不遇な立場になることを嫌うはずであり、その結果、もっとも不遇な立場にある人の利益を最大にする社会システムがなければならない・・・という社会契約が成立するであろう・・・という訳だ。すなわち、ジョン・ロールズの「格差原理」は、社会契約説に立脚し、「無知のベール」というものを想定するところに一大特徴があるが、これらに特に問題はないと思う。「格差原理」は素晴らしい。しかし、「格差原理」は「人間が合理的な動物」であろうとなかろうと導ける結論で、「格差原理」だけならそういう前提をおかなくてもいいのではないか。
マイケル・サンデルを筆頭とするコミュニタリアンがロールズの「自由主義」に批判的であるのは、より根源的な存在論レベルにおいてであるが、私も存在論レベルにおいてより根源的な問題提起をしているのである。それが私の「感性哲学」である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kansei00.html

すべての動物は、もちろん人間も含めて、合理的な生き方をするところに生きる意義があるのではなく、生きること自体に生きる意義がある。生きるということは、仲間を大事にし、 自分に敵対しない他者、自分にすり寄る他者、 弱い他者に優しくすることである。これぐらいなら誰でもできるだろう。合理的に生きるなんてどだい難しい話だ。

問題は、戦争に関する認識だ。ロールズは、戦争に関するいくつかの原理を導いて、地獄のような戦争を一刻でも早く終わらせるためならどんな手段でも選んでもよいとする考えに反対し、広島への原爆投下を厳しく批判した。「人間を合理的な動物」と考えるからこそ、そういう結論になるのであって、そもそも人間をどう認識するかが大問題である。人間は合理と非合理の間、つまり矛盾システムを生きており、合理的な社会を前提におくことに無理がある。
「人間を合理的な動物」と考えるのは間違いだと思う。新進気鋭の哲学者・マーク・ローランズもそう言っている(哲学者とオオカミ、2010年4月、白水社)が、私も、多くの人々は合理的な思考ができないと考えている。人々ができるのは、仲間を意識することぐらいのものだけだ。もちろん、 自分に敵対しない他者、自分にすり寄る他者、弱い他者に対する憐憫の情はある。しかし、中心は仲間意識である。
原爆投下の問題に関して、マイケル・サンデルも明確な答えはもっていない。当然だろう。コミュニタリアンとしては、原爆投下やむなしの結論しかでないだろうし、かといって、ロールズの「自由主義」に批判的である以上、ロールズの考えに従う訳にもいかない。この点、 マイケル・サンデルはどう考えているのだろうか? 是非、教えてもらいたいと思うが、 とりあえず私としては、「人間を合理的な動物」とするロールズの考えが間違いだと言っておきたい。

私は、上述のごとく感性というものを重視し、自分なりの「感性哲学」を考えてきた。私は、河合隼雄の「アイデンティティネットワーク」のことを「個別潜在的自己」と呼んでいるが、「個別潜在的自己」を大別すれば、原人類的に先天的なもの(原初的)と人類的に先天的なもの(文化的)、それに後天的なもの(学習や修行によって得られる文化的なものほか「三つ子の魂」を含む)の三つに分類するのが良い。原初的な状態とは遺伝子の支配する世界、つまり感性だけが働く世界であって、文化的はものはないのである。

「人間を合理的な動物」だという大前提をかなぐり捨て、感性を大事にする社会を目指すとなれば、戦争に関するロールズのような考えには論理的にならない。再度申し上げる。 戦争は、できるだけ避けた方がいい。主義の違いで戦争をしたり、覇権主義にもとづいて戦争をするのは絶対に止めるべきである。日本は憲法第9条第1項を堅持すべきであるし、戦争になる前に話し合いに全力を傾けるべきである。しかし、相手からしかけられた時には、敢然と戦って相手に勝たねばならない。国家は、国民の生命と財産、そして国民の自由を守るために戦争に負けるわけにはいかない。どんな手段を使ってでも相手を打ち負かさなければならない。しかし、そういう国家の正義の原点に、私は、コミュニティがあると思う。個人の魂に正義がない限り国家の正義は保てないし、同様に、さまざまなコミュニティの正義がない限り、国家の正義は保てない。国家もひとつの集団だが、コミュニティも集団である。集団における正義というのは、個人における正義とは異なっている部分があり、国家の正義を語るには、コミュニティの正義を語らないと、いきなり個人の正義を語っていたのでは、国家の正義で私がもっとも大事だと考えている正義の部分が抜け落ちてしまう。かかる観点から、以下において、コミュニティというものの特質をまず明らかにしておきたい。




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