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2014年7月19日 (土)

霊魂の哲学と科学(その5)

霊魂の哲学と科学(その5)

第2章 呪力について

呪力とは、デジタル大辞泉によると、まじない、またはのろいの力。呪術の基礎をなす超自然的・非人格的な力とある。大辞林によれば、①まじない,またはのろいの力。②特定の人・物・現象などにやどると信じられている超自然的な力。 →「マナ」 とある。この「マナ」については学問的にもいろいろと研究されているが、私はそれらも含めて呪いの力すなわち呪力というものは実際に存在すると考えている。

岡本太郎の「美の呪力」(平成16年3月、新潮社)を読み直して、今さらながら、未熟さを痛感しているところである。鶴岡真弓が解説を書いていて、・・・『「芸術」と「文明」を、行為して、思索して、世界中を駆け巡った「岡本太郎」。その眼と脳と皮膚で世界美術史を踏破した、熱い言葉の叢(くさむら)。「美の呪力」に収められた「著述/著術」を前にして、太郎が示した思考の鮮度にたじろがない者はいないだろう。』・・・と言っているが、確かにこの本は凄い本である。

『 本当の世界観は、現時点、この瞬間と根源的な出発点からと、対立的である運命の両極限から挟み撃ちにして、問題を突き詰めていかなければならないはずだ。歴史は瞬間に彩りを変えるだろうし、美術は、美学であることをやめて、巨大な、人間生命の全体をおおい、すくいあげる呪術となって立ち顕われるだろう。』・・・岡本太郎はこのような哲学的な話の中で「呪術」という言葉を使って、以下に紹介するように、いろいろと「呪術」について語っている。

「美の呪力」(平成16年3月、新潮社) の中で岡本太郎が「のろい」とか呪術とか呪力とか呪文とか「呪」のつく言葉を使っている箇所は次のとおりである。

『 イヌクシュクには人間像になっていないものもあるというが、これがたとえ明らさまな人形(ひとがた)ではなくても、生活の中の神聖な像であり、呪術的役割を果たしていることは確かである。(中略)厳しい自然の抵抗の中を常に彼らは移動していた。獣皮で作った橇を走らせ、小舟を操り、アザラシやセイウチ、鯨を仕留め、トナカイを狩る。猟場を求めて、凍てつく荒漠たる天地を移動する。だからこそ、たとえささやかでも彼らの生命の証として、運命的な場所に、動かない、孤独に佇立(ちょりつ)した、この人形(ひとがた)を積み上げたのだ。自分たちの流動的な運命の中に、この最低限な、神聖な標識、イヌクシュクは、彼らの生きてゆく切実な願いのしるしであり、それを受け止める守護神でもあったのだろう。』
『 石を積み上げるという神聖な、呪術的行為。たしかに、命を積んでいるのだ。石ころ一つ一つが命なのだ。それは取るに足らない、ささやかな、吹けば飛ぶ、蹴飛ばされれば転がって無明に転落してしまう命。宗教儀礼の聖なるカレンダーの周期ではない。瞬間瞬間、人間の命の周期は断絶なしにめぐっている。だから積むと崩れるとは同時なのである。とすれば、積むこと自体が崩れる、崩すことではないか。(中略)ただ単に石を積むという行為、それはいったい何なのだろう。蒙古、新疆(しんきょう)、チベットなどに「オボ」という聖所がある。石を積み上げて一種の壇をつくり、その中心に木を立てる。ここでシャーマンを中心とした祭りが行われるが、庶民日常の礼拝の対象でもある。この種の石塚の伝統は朝鮮のタン、中国・東北のアオなど北方ユーラシアの広々とした地表をおおい、ヒマラヤ山中からペルシャにまで及ぶという。私の眼に浮かんでくる。冷たく青く透き通った北方の空の下に、積み上げられている石積み。・・・身近なわが国の伝説、賽の河原を連想する。幼くして死んだ子供が三途の川の河原で小石を積み上げる。すると苛酷な鬼が出てきて、積むそばからそれを崩してしまうのである。あれは中世の地蔵信仰に基づいた伝説だ。仏教の因果ばなし、ご詠歌調の臭さが出ていて、それなりの面白さはあるが、そのイメージのもとにははるかな古代からの、石を積む習俗があったに違いない。』
『 石は大地のよりどころ、木は天空に向かっての標識である。天と地は無限の両極から人間の運命をかかえ、そして引き離す。木、石はそれに対応する呪術をはらんでいるのだ。』

『 一つここに驚くべき事実がある。エール大学のマイケル・コー教授の最近の発表によると、このオメルカの石の頭は最初から土に埋めてあったものらしい。粘土できちんと土台を作って据え、土をかぶせてあった。メキシコ南部サン・ロレンスで、雨のために偶然山が崩れ、そこに石造がわずかに露呈してきたのだ。これをヒントを得て、周辺の何でもない山肌を電波探知器で調べたら、このような石彫がまだ百あまりも埋もれていることが判った。今まで、土地の者によって掘り出されていたものだけで、謎に包まれていたこの巨石の顔は、いよいよ不可思議な神秘の相をあらわしてきた訳だ。顔を刻み、神格にしたのち、それをことごとく地面に埋めてしまう。これは一体どういうことなのだろう。大地に対する呪術なのか。それにしても、現象的には無になってしまうのだ。ただ無存在で
「ある」、「なる」、ということよりもさらに激しい、積極的な還元である。何たる謎。』

『 鮮血・・・このなまなましい彩(いろど)りが、石について書いているとき、ふと私の心の中に湧き起こってきた。血を浴びた石。(中略)人間は石とぶつかりあいながら、血を流しながら、生き貫いてきた。その残酷な思い出が心にうずくのだろう。血は清らかであり聖であると同時にケガレである。この誇りと絶望の凝縮・・・。今強烈なイメージとして、グリューネヴァルトの「磔(はりつけ)のキリスト像」、あのイーゼンハイムの祭壇画が眼に浮かんでくる。(中略)
 グリュウーネヴァルトに感動しながら、人間の業、傷口のいやらしさを、このように露(あらわ)にした絵に共感する、せずにはいられないこの状況に、腹が煮える思いがする。血だらけのキリスト像は、人間とそれを超えた宇宙的存在との悲劇的な噛み合い、いいかえれば人間そのものの運命を浮き彫りにしている。ヨーロッパ中世を数百年のあいだ強力に抑えていたキリスト教の運命が、時代の末期に、むきだしに傷口となり、血を噴き出している。この「呪い」にも似たイメージはキリスト教者でないわれわれにも、不思議になまな迫力で迫ってくるのだ。信者でない私はまったく外側から、自由に受け止めるのだが。神秘な感動は向こうからこちらに働きかけるばかりでなく、こちらから同時に対象に押し及ぼす。その交流は強烈なものだ。
 このような「血の呪文」がもしキリスト教世界の中でしか解けない、通じないとしたら意味がない。われわれが今日の人間的感動で根源的な血として意味を解読すべきではないか。その方がはるかに率直で、ダイナミックであり得る。それにしても、この絵はあまりにもなまなましい。(中略)この血は霊であり、生命のしるしである。(中略)あの残酷なリアリズム。凝固した血。単なる絵画表現をこえて、何か人間の絶望的な運命を予告する不吉な影を浮かび上がらせる。その呪術は今日まで、ながながと尾を引いているようだ。』

私は、イヌクシュクの石、石の信仰とその世界、謎のオルメカ文明、グリュウーネヴァルトの「磔(はりつけ)のキリスト像」などについて解説しながら、「美とは何か?」を持論を展開した。

さて、岡本太郎は、「美の呪力」の中で、上述してきたように、イヌクシュクの石像のもつ呪力について論じ、「磔(はりつけ)のキリスト像」と繋げながら「血」のもつ呪力について論じている。そして、それらを出発点として、ゴダールの名作「ウィーク・エンド」という映画のもつ呪力、アステカの人身供犠を描いた絵画のもつ呪力を論じていく。そして、羅刹(らせつ)の女ジェマティーの図像、曼荼羅(まんだら)、ゴヤの「カプリチョス」、ピカソの「ゲルニカ」、各種戦争画、各種仮面、炎の像と絵画、夜の画家ゴッホの作品、ビザンチンの夜に関わる美術品などももつ呪力について、鋭い眼を向けながら、最後にケルトの文様を論じている。この最後のケルトの文様については、鶴岡真弓が次のように解説しているので、それを紹介して筆を置くことにする。
『 「美の呪力」の最後を飾る第11章「宇宙を彩る・・・綾とり・組紐文(くみひももん)の呪術に、ヨーロッパ極西の国アイルランドの「ケルト」の文様が語られる。中世アイルランドのケルト系修道院に立つ「石の十字架」や、福音書写本「ケルズの書」に修道士が描いた呪文のようなケルトの「組紐文」。中心というものがない。無限に伸び、くぐり抜けて広がる。世界を流動の相で捉える人びとの造形だ。・・・自分たちを超えた運命がいつでもすれ違いながら流れている。(中略)岡本太郎曰く。「私にいちばん問題を投げかけてくる美は、他の大陸を別にすれば、ヨーロッパでいちばん古い、ケルトの文化なんです。」』

以上は、第2章の要点のみピックアップしたものだが、第2章全体を次ぎに紹介しておくので、是非、岡本太郎の語る「美の呪術」から多くのものを学んでいただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rei02.pdf

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