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2014年7月31日 (木)

霊魂の哲学と科学(その17)

霊魂の哲学と科学(その17)
第5章 霊魂の哲学について(10)
第3節 ホワイトヘッドの霊魂観(4)

2、エネルゲイア(2)

荒川嘉広は、その著書「生成と場所・・・ホワイトヘッド哲学研究」(2001年2月、行路社)の中で次のように述べている。すなわち、

『生成と変化という語は、従来同一の事態を指すものとして曖昧に扱われてきたが、ホワイトヘッドは両者を明確に区別している。すなわち一般の現実存在は生成し消滅するが、変化しないのである。変化の担い手はいわゆる存続物であり、存続物とは本来、特殊な形態をとってきた社会であり、ネクサスなのである。したがって、変化の担い手が現実存在ではなく、社会であると言われるとき、変化とは、一定の型のある一つの社会に属するもろもろの現実存在間の相違を意味しているのである。

ホワイトヘッドは神に焦点を当てて、エネルゲイアの現実存在の説明をしている。ホワイトヘッドの神は一つの現実存在であり、社会ではない。たしかに彼は、「存在するためにそれ自身以外の何ものも必要としない存在」として定義される実態概念を否定し、神でさえもそのような存在ではなく、「すべての存在はその本質において社会的であり、それが存在するためには社会を必要とする」と述べている。だが、このことは、神が社会であるということを意味しない。そうではなく、神は完全な社会性をそなえたひとつの現実存在なのである。それゆえ、ひとつの現実存在として神は生成するが、しかし変化はしない。しかも主体としての現実存在の生成過程はエネルゲイアとしての活動に比せられるので、神の生成はエネルゲイアとしての活動を意味しているのである。

ところで、神以外の現実存在は、いつかはその合成過程を終了して主体的直接性を失い、客体的不滅性の機能へと移行していくものである。しかし、神という現実存在は、この世が始まって以来一度も死滅したことはなく、つねに主体的直接性において他のすべての創造的働きと生成の一致にあり、同時に絶えず自己を世界へと与えつつある、ひとつの合成過程としてのエネルゲイアなのである。つまり、神は原初的本性としては、非時間的で無限の現実性である。しかもその現実性は概念的であるにすぎず、各時間的現実存在を物理的に抱握することによってはじめて十分な現実性を獲得する。それゆえ神は、結果的本性において、現実的にますます豊かになっていく。しかしその過程全体は、あくまでもひとつのエネルゲイアとしての活動にほかならない。』・・・と。

私が思うに、神がそうであるのと同様に、霊魂もエネルゲイアの活動に他ならない。霊魂の原初的本性としては、非時間的で無限の現実性である。神も霊魂も不滅である。
以上の説明の中に、「抱握」という一般的には聞き慣れない言葉が出てきたので、次の項3で説明するとしよう。

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