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2014年7月13日 (日)

医心方(その23)

医心方(その23)

第1章 中国伝来文化と医心方

おわりに(3)

⑥ 桧隈寺(ひのくまでら)と於美阿志神社(おもあしじんじゃ)は、高松塚古墳とキトラ古墳のほぼ中間、山間の狭い地域にある。阿知王が、渡来してきてそこに住みつき開拓した地域である。阿知王の一族が営んだ寺として桧隈寺(ひのくまでら)があるが、 於美阿志神社(おもあしじんじゃ) はその鎮守の社(やしろ)であったらしい。祭神は阿知王御夫妻である。現在の於美阿志(おみあし)神社は1907年(明治40) に移設されたものであるとしても、明日香に阿知王を祭神とする於美阿志(おみあし)神社が現に存在している。その歴史的意義を考えて、明日香のこれからの観光に役立てるべきである。観光とは光り輝くものを観るものである。於美阿志(おみあし)神社は本来光り輝くものであるが、今は埃にまみれてしまっている。これではいけない。大いに磨きをかけて輝かせようではないか。阿知王を祀る神社は全国にいくつかあるので、これからの課題として、於美阿志(おみあし)神社が中心となりそれら神社と連携して、合同のお祭りを構想すべきである。中国から「道教」の僧侶に参加してもらうのも大変意義のあることである。

⑦ 阿知王を祀る神社が全国にいくつかある中で、渥美半島の伝承は大変面白いし歴史的な意味もあるので、ここにその伝承を詳しく書いた。本文4の(2)「阿志神社(あしじんじゃ)」を読んでいただき、是非、渥美半島の観光に出かけて欲しい。

⑧ 阿知王の末裔東漢氏は、蘇我氏に仕えてその繁栄を誇ったが、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺を見て、利あらずと判断、結局は蘇我入鹿を裏切った。結果として中臣鎌足側に貢献したことになるが、天武天皇は東漢氏一族を信用ならぬ一族と認識していたのである。それが上の詔(みことのり)であるが、このような詔が出るということは異例のことであり、東漢氏一族はもちろんのこと、藤原一族の心にも深く浸み込んだであろう。この天武天皇の詔(みことのり)以降、東漢氏一族は隠忍自重の日々を過ごしたに違いない。やがて、坂上氏は藤原氏に重用されることになるが、それは奈良時代末期から平安時代初期にかけてのことであって、もはや飛鳥時代のことは遠い昔のこととなっていた。仮に阿知王並びに東漢氏一族の栄光が坂上氏の記憶に残っていたとしても、飛鳥の地においてそれを表だてることはまったく意味のないことであった。せいぜい奈良時代末期から平安時代初期にかけて坂上氏一族の支配する地において、祖先神を祀ることが関の山であったのである。このような事情によって、檜前寺並びに於美阿志神社は、荒れ果ててしまったのである。しかし、今となっては、中国伝来文化に国民こぞって感謝の気持ちを表す意味からも、また闇に隠れてしまった歴史の真実に光を当てるという意味からも、於美阿志神社の祭りを大いに盛んにしたいものだ。

⑨ 日本書紀と古事記は画期的な本であるが、それらはどのような目的のために書かれたのか?  それを語る場所としては、日本広ろしと言えども甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)という場所しかない。甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)は、まさに「場所の論理」でいうところの「論点や議論の隠された所としての場所(トポス)」なのである。

⑩ 梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言っており、上でその事を述べた。しかし、実は、その原型となる神事を朝廷で行ったのは允恭(いんぎょう)天皇である。当時、諸氏族は数多くの支族に分かれて乱立し、てんでばらばらに出自を飾って氏姓の乱れが激しかった。そこで允恭(いんぎょう)天皇はこれを正そうとされ、味橿丘、つまり現在の甘樫丘の先端部分で盟神探湯(くがたち)を行わせた。

⑪ 盟神探湯(くがたち)については、 前之園亮一の論説「宋書南斉書・名代・猪膏から見た氏姓成立と盟神探湯」(2003年3月、学習院史学の黛弘道先生退任記念号)によれば、火傷の治療薬として猪膏(ぴんいん)が大量に用意されたらしい。前之園亮一は、『 湯による火傷の治療には2週間以上もかかるので、盟神探湯の裁判を受ける被判者一人一人に相当の量の猪膏(ぴんいん)が必要である上に、盟神探湯裁判では氏姓を争う双方の氏族が集団で争うので、一回の盟神探湯で何十人、何百人という火傷の患者が発生し、その治療に膨大な猪膏(ぴんいん)を必要としただろう。』・・・と言っている。また、彼は、阿知王の一族によって、後年医心方に書かれたようないくつもの治療法が適宜適切に使われたことを示唆している。允恭(いんぎょう)天皇の行った盟神探湯(くがたち)は、神事のみならず、火傷の治療にも阿知王の一族が重要な役を担ったのである。



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