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2014年7月17日 (木)

霊魂の哲学と科学(その3)

霊魂の哲学と科学(その3)

「霊魂の哲学と科学」序文

平成25年1月27日の世界日報に、映画監督の篠田正浩、この人は1950年に早大で箱根駅伝の2区を走った方だが、その人が、箱根駅伝の存在意義を「箱根の山を目指し、その先には富士山がある。だから箱根駅伝は、若者が日本の霊峰を目指して走る神事だ」と語っているのが紹介されていた。相撲は本来神に捧げるものであるし、本来歌舞音曲もそうである。私も箱根駅伝は神事だと言って良いと思う。だとすれば、東京から箱根に向かうそのコースはさしずめ「霊ライン」と言って良いのかもしれない。私はいずれ機会を見て「霊ライン」についてもその科学的説明をしたいと思っているが、そのまえにそもそも「霊とは何か?」を科学的説明をしておく必要がある。この論文「霊魂の哲学と科学」は、私が今まで「平和の原理」を探し求めて旅をしたその決着をつけるために書いているのだが、その結果、「霊ライン」とか「イヤシロチ」とか「風水」とか、はたまた中沢新一が大阪に存在する「ディオニソス軸」などの科学的説明ができるかもしれない。

ここでちょっとお断りしておかなければならないのだが、哲学的に思考されるものにできるだけ科学的な説明を加えようという意味であって、随所に民俗学的知見や哲学的知見が出てくるのをご理解いただきたい。

上述のように、この論文は、私が今まで「平和の原理」を探し求めて旅をしたその決着をつけるために書いているので、まずは「怨霊」、「妖怪」、「天狗」、「鬼」とは何ぞや、というところから書き始めている。怨霊も妖怪も天狗も鬼もすべて霊的な存在だが、それらが「神」に変身するためには、「呪術」が必要である。そこで、そのあとに岡本太郎の名著「美の呪力」の要点を紹介している。次に谷川健一が「 普遍的な発展の法則にしたがっている日本歴史の裏側に、もう一つの奇怪しごくな流れがある。それは死者の魔が支配する歴史だ。」という基本的な認識から、「魔の系譜」という本を書いている。これも霊を語る上で必読の本であるので、私が考える・・・いちばん肝心なところ(心髄部分)を選び出して、必要な解説を書いている。

実は、霊については、プラトンの霊魂論というのがあって、彼は「パイドン」と「国家」という本を書いている。これらは、プラトンの力作であって、正に世界的な名著である。歴史的に数多くの偉大な哲学者が出ているけれど、「霊魂についての哲学」を本格的に書いた人はいない。プラトンの霊魂論は、人の生き方を指し示すものであり、国家のあり方を指し示すものである。私には、プラトンによって、まさに「平和の原理」が哲学的に明らかにされたと考えている。

藤沢令夫は、そのプラトン著の翻訳書「国家」(1979年6月、岩波書店)の解説で、次のように述べている。
『 イデア論と魂不死の思想とは、両者相まってプラトンの哲学の、特にプラトン的と呼ばれるべき心髄をなす。「国家」篇で構築される理想国家は、けっしてたんなる安楽国でもなければ、」いわゆるユートピアや理想郷でもなく、戦争という悪を不可能とする条件の下で、国のために戦う「守護者」の育成を中心として考えられたものであるが、現実的な性格を持つものであるが、この極めて現実的ないし現世的な国家の構想そのものがしかし、妻子共有の話や細々とした食物のことまでも含む記述と共々に、こうしたイデア論と魂の不死の思想を心髄とする哲学によって、全体としてはそっくり「永遠の相」に包み込まれることになるのである。』・・・と。

さて、臼田乃里子の「供犠と権力」(2006年12月、白地社)という素晴らしい本がある。「供犠」についてこれほど突っ込んだ考察をした論考を私は知らない。彼女は、 日本にも「いけにえ」(供犠)の文化があったということ、怨霊は「供犠」であるということ、そして御霊(ごりょう)という「神」は怨霊が変身したものであるということを、主張しているのである。谷川健一もその著「魔の系譜」の中で怨霊について縷々述べているけれど、臼田乃里子の方がより深い考察を加えている。そこで、私は、怨霊について、臼田乃里子の「供犠と権力」から、今まで私の書いてこなかった知見を皆さんにご紹介して、私がかって書いた電子書籍「祈りの科学シリーズ(3)」「怨霊と祈り」の補足資料としたい。

この論文「霊魂の哲学と科学」の最後に、以上の知見を踏まえながら、私の霊魂論を展開する。「ユウレイとは何か?」「哲学的な幽霊について」「霊魂の科学」を述べ、「神の世界」の構造を明らかにする。
悪魔にもいろいろな悪魔がいる。「ファースト」に登場するメフィストはその中でもましな悪魔である。ましな悪魔は、神の園に入ることが許されており、最高の神と話をすることを許されている。本来の悪魔は神の園に入ることを許されておらず、悪魔の国に閉じ込められている。ひとつの集合体が形成されている訳だ。しかし、本来の悪魔、それは怨霊のことだが、そういう本来の悪魔も、密教僧の発信する「言霊」によってメフィストのような「ましな悪魔」に変身し、その後も、人々が神として「祈り」を捧げているうちに、神、もちろん唯一絶対神の配下の神であるが、神へと変身する。怨霊から「ましな悪魔」に、そして「ましな悪魔」から「神」へと二段階を経て変身していく。
このようなことは科学的に証明できることではなく、ただ単に、怨霊とか御霊信仰についての科学的な説明を進める上での仮説だとお考えいただきたい。私はこれを「怨霊仮説」と呼びたい。

神の国には、本来の神のほかに、人々の「祈り」によって普通の死者が変身した神と、特別の祈祷と人々の「祈り」によって怨霊が変身した神がいる。このような神の国の構造を考えないと、怨霊とか御霊信仰の科学的な説明ができない。

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