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2014年7月24日 (木)

霊魂の哲学と科学(その10)

霊魂の哲学と科学(その10)
第5章 霊魂の哲学について(3)

第2節 プラトンの霊魂観(1)

幽霊とは、本来の魂がその人の欲望などによって悪い状態になったもので、さまよえる亡霊のことである。しかし、その亡霊も何かの拍子で成仏できる。そうすれば、その魂も本来の魂に戻ることができる。さまよえる亡霊が成仏できるかどうかは、僧侶など特別の能力を持った人に秘儀を行ってもらうか、社会環境の変化で生前の悔しい思いが干渉されるか、それ次第である。皆さんご承知のように、ニーチェはまことの不幸な死に方をした。
私は、ニーチェの亡霊は今なお成仏できずにこの世をさまよっていると思い、「さまよえるニーチェの亡霊」という本を書いた。
http://honto.jp/ebook/pd_25249963.html

さまよえるニーチェの亡霊が成仏するためには、ニーチェの真の願いが実現するように、新たな哲学が必要である。上記の本はそのことを書いたのだが、私たちは不幸な死に方をした人々のことを思い、神の国に近づく努力をしなければならない。亡霊のことはプラトンの最大の哲学的課題であり、プラトンは、その著「パイドン」(岩田靖夫、1998年2月、岩波書店)の中でも触れている。次の通りである。すなわち、
『 魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。その場合、魂は肉体的な要素を少しも引きずっていない。なぜなら、魂は、その生涯においてすすんで肉体と交わることがなく、むしろ、肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは、また、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。』
『 魂が以上のような状態にあれば、それは、自分自身に似たあの目に見えないもの、神的なもの、不死なるもの、賢いもの、の方へと立ち去っていき、ひとたびそこに到達すれば、彷徨や、狂愚の振る舞いや、恐怖や、凶暴な情欲や、そのたの様々な人間悪から解放されて、幸福になるのではないか。そして、秘儀を受けた人々について言われているように、残りの時間を真実に神々と共に過ごすのではないか。』
『これに対してもう一つの場合として、魂が汚れたまま浄められずに肉体から解放される場合がある。というのも、そのような魂はいつも肉体と共にあり、肉体に仕え、これを愛し、肉体とその欲望や快楽によって魔法にかけられて、その結果、肉体的な姿をしたもの、すなわち、人が触ったり、見たり、飲んだり、食べたり、性の快楽のために用いたりするもの、以外の何ものをも真実と思わなくなるからである。そして、肉眼には暗くて目に見えないもの、しかし、知性によって思惟され哲学によって把握されるもの、このようなものを、この魂は憎み、恐れ、避けるように習慣づけられてきたからである。』
『この肉体的なものは重荷である、と考えなければならない。それは、重く、土の性質を帯び、目に見える。このような魂は、この重荷をもつために、酷い荷物を背負わせれて、目に見える場所へと再び引きずりおろされる。それは、目に見えないものとハデス(あの世、字義通りには、目に見えないもの)を恐れるからである。そのような魂は、よく言われるように、墓碑や墳墓の周りをうろつくのであり、墓碑や墳墓の周囲には魂のなにか影のような幻が見られるのである。』


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