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2014年7月12日 (土)

医心方(その22)

医心方(その22)

第1章 中国伝来文化と医心方

おわりに(2)

その小論文の要点は、上述のものとダブっている部分が多いが、次の通りである。

① 「医心方」(原書)は奇跡の書である。この「明日香と阿知王」という小論文は、その点に焦点を当てて、阿知王、正式には 阿知使主(あちのおみ)というが、その人の象徴する中国伝来文化の日本に与えた影響の大きさを書くとともに、阿知王の子孫が如何に朝廷に貢献したかを書いたものである。

② 明日香には高松塚古墳やキトラ古墳や石舞台などよく知られている遺跡があるが、それら高貴な方を支えた実力者に阿知王ならびにその子孫である「東漢(やまとあや)氏」がいるのであって、私たちの歴史観を育てるためには、阿知王ならびにその子孫である「東漢(やまとあや)氏」のことを知らねばならない。私は、中国伝来文化の日本に与えた影響というものを考えた時、明日香のもっとも誇るべき光り輝くものは、「東漢(やまとあや)氏」の祖・阿知王ではないかと考えている。その光り輝くものを見るのが「観光」である。明日香の観光の目玉は、阿知王であり、その現実の観光資源としては阿知王をを祀る「於美阿志神社(おもあしじんじゃ)」だと私は思う。

③ 阿知王の末裔、つまり東漢(やまとあや)氏の末裔には朝廷の重臣が多く、彼らはそれぞれの時代に大きな働きをした。その中にかの有名な坂上田村麻呂がいる。 世に出回っている系図によると、坂上田村麻呂の「大叔父」が「医心方」を書いた丹波康頼(たんば の やすより)である。丹波康頼(たんば の やすより)は、本来坂上氏であるが、永観2年(984年)に『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上、その功績をもって朝廷より「丹波宿禰」姓を賜り、以来医家として続く丹波氏の祖となったのである。阿知王は、「中国の医学書80冊」を持って日本にやってきた。そして、その医学書80冊とともに、それを読む漢文の知識が、都加使主、坂上駒子、坂上弓束、坂上老、坂上大国などを経て丹波康頼(たんば の やすより)へと伝承されいったのである。当初、その「中国の医学書80冊」は明日香にあったに違いない。

④ 坂上田村麻呂の場合は、軍事面で朝廷を支えたということだが、東漢(やまとあや)氏は、その語学力を生かして外交面でも朝廷で中心的な役割を担ったのである。阿知王の子孫が東漢氏と呼ばれるようになってからは、阿知王の子孫は蘇我氏直属の部下として活躍する。蘇我氏は東漢氏を中心とする帰化人を管理することによって、経済官僚として登場してきたのである。

⑤ 今昔物語は、世間で広く読まれた書物であるので、そこに書かれた医術や呪術は広く世間に浸透していって、いわゆる民間療法を作り上げていったのである。 丹波康頼の医心方は、天皇や貴族の治療が目的で書かれたものかもしれないが、民間療法にも大きな影響を与えたのである。高松塚古墳やキトラ古墳は、明日香が大和朝廷の政治的重要な地域であったことを示しているが、それが庶民の生活文化に影響を与えた訳ではない。一方、阿知王のもたらした中国の80冊の医学書は、丹波康頼をはじめとして多くの人びとの手によって民間療法という形で庶民の生活文化になった。したがって、阿知王は、日本の民間医療の大恩人ということができる。漢方薬、神農祭、庚申待ちなども、阿知王のもたらした中国の80冊の医学書が基になって、日本文化になったものであり、阿知王は、大和朝廷の大恩人ばかりでなく、日本文化の大恩人でもあるのである。



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