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2014年7月26日 (土)

霊魂の哲学と科学(その12)

霊魂の哲学と科学(その12)
第5章 霊魂の哲学について(5)
第2節 プラトンの霊魂観(3)

2、プラトンの想起説と霊魂

プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は「精神の目」で忘却されていたものを「想起」 (アナムネ-シス)することによって得ることができるものであり、その想起からかつて属していたイデアの世界を憧れ求めるところの愛(エロス)が生じるとした。

イデアの想起(想起説)が主題的に語られるのは、プラトンの『パイドロス』という対話編である。では、「パイドン」(岩田靖夫、1998年2月、岩波書店)において、プラトンがソクラテスをして語らせている要点を以下に紹介しておこう。

ケベス:あなたがよく話しておられるあの理論、・・・それは、われわれの学習は想起に他ならないというあの想起説ですが・・・それにしたがってもまた、もしそれが真実であれば、われわれは何か以前のときに、現在想起していることを学んでしまっている、ということにならざるを得ません。だが、このことは、もしわれわれの魂がこの人間の形の中に入る前に、どこかに存在したのでなかったならば、不可能です。だから、この点からも、魂がなにか不死なるものである、と思われるのです。
ソクラテス:もしも誰かが何かを見たり、聞いたり、なにか別の感覚で捉えたりした場合に、その当のものを認めるばかりでなく、別のものをも想い浮かべるとすれば・・・この両者については同一のではなく、別の知識が存在するのだが・・・この思い浮かべたものを彼は想起したのだ。(中略)人間についての知識と竪琴についての知識とは別のものだね。ところで、恋する人びとは、かれらの愛する少年たちいつも使っていた竪琴とか、上着とか、なにかそんなものを見ると、今僕が述べたことを経験するということは、君も知っているね。彼らは竪琴を認めると、その竪琴の持ち主であった少年の姿形を心に思い浮かべる。これが想起なのだ。(中略)時間の経過と注意を払わなかったために、すでにすっかり忘れていたものごとについて、この経験をする。
ケベス:まったくその通りです。
ソクラテス:君が何かあるものを見ながら、この見たことをきっかけにして、何か別のものを考えつくならば、それが似ていようと似ていまいが、そこに必ず想起がオコッタのだ。
ケベス:まったくその通りです。
ソクラテス:だれかが何かを見て、自分が現に見ているこのものは存在するもののうちで何か別のものになろうと望んでいるが、何かが不足していて、かのもののようになれず、より劣ったものである、ということに気がつくとき、多分このことに気づいた者は、かのものを必ず予め見たことがあるのでなければならない。
ケベス:どうしても、そうでなければなりません。
ソクラテス:もしもわれわれが生まれる前に知識を得て、その知識を持ったまま生まれてきたのだとすれば、われわれは、生まれる以前にも生まれてからすぐにも、「等しさ」や「より大」や「より小」ばかりでなく、このようなすべてを知っていたことになる。なぜなら、われわれの現在の議論は「等しさ」についてばかりでなく、「美そのもの」「善そのもの」「正義」「敬虔」などにも同様に関わるからだ。そして、いつも言っているように、対話の議論において問うたり答えたりしながら、われわれが「まさにそのもの」という刻印を押すすべてのものに、関わっているのだから。したがって、われわれはこれらのすべてについて、生まれる以前に知識を得ていたのでなければならない。その知識を獲得して、いつもそれを忘れないでいるのならば、われわれは常に知りながら生まれてきて、生涯を通じて知り続けているのでなければならない。なぜなら、知るということは、何かについて知識を獲得した者がそれを保持して、失わない、ということなのだから。(中略)われわれが「学ぶこと」と呼んでいる事柄は、もともと自分のものであった知識を再把握することではなかろうか。そして、これが想起することである。何かを、見たり、聞いたり、なにか他の感覚を用いて、知覚しながら、このものを機縁にしてすっかり忘れていたなにか他のものを考えつく、ということは。このものとかのものとが似ても似ていなくても、関係がありさえすれば、そういうことが起こるのだ。
ケベス:まったくその通りです。ソクラテス。

想起説については以上だが、最後にプラトンはソクラテスをして次のように語らせている。
ソクラテス:魂は人間の形の中に入る前にも、肉体から離れて存在していたのであり、知力を持っていたのだ。(中略)もしも、われわれがいつも話し続けているもの「美」や「善」やすべてのそういう実在が、確かに存在するならば、そして、そういう実在がかってはわれわれ自身のものとしてあったことを再発見しながら、感覚によって把握されるすべてのものをその実在に遡って関連づけ、相互の類似を確かめるのならば、これらの実在が存在するように、われわれの魂もまた、われわれが生まれる以前にも存在したのでなければならない。

「パイドン」(岩田靖夫、1998年2月、岩波書店)では、「魂とイデアの親近性」について以下のように議論が展開される。
ソクラテス:合成されて出来たものや、自然的に合成物であるものにとっては、それが合成されたのと同じ仕方で分解される。これに対して、もしなにかが非合成的であるならば、他のものはいざ知らず、このものだけが分解されない。
ケベス:そうだと思います。
ソクラテス:では、常に自己同一を保ち同じように有るものが、非合成的であり、これに対して、時によってその有り方を変えけっして自己同一を保たないものが、合成的である、とするのがもっとも適切だろうね。
ケベス:はい、私はそう思われます。
ソクラテス:「等しさそのもの」「美そのもの」、何であれまさにそのもの自体、まさにそれで有るところのもの、は、いかなる変化であるにもせよ、変化なるものを受け入れることはまさかあるまいね。いや、これらのそれぞれの「正にそれで有るところのもの」は、単一の形相であり、それ自身だけで有るのだから、常に同じように自己同一を保ち、いかなるときにも、いかなる仕方においても、けっして、いかなる変化をうけいれないのではないか。
ケベス:そうです、同じように自己同一を保つことは必然です、ソクラテス。
ソクラテス:目に見えないものは常に同一の有り方を保ち、目に見えるものはけっして同一の有り方を保たない。魂は前者であり、肉体は後者である。ところで、魂は、何かを考察する際に、視覚なり、聴覚なり、なにか他の感覚を通して、肉体の助けを借りる場合、・・・というのは、感覚を通してなにかを考察するということは、肉体を通して考察するということに他ならないのだから・・・そのとき、魂は肉体によってひとときも同じ有り方を保たない方へと引きずり込まれ、それ自身が彷徨(さまよ)い、混乱して、酔ったようになって目眩(めまい)を覚えるのだ。
ケベス:そのとおりです。
ソクラテス:魂が自分自身だけで考察するときには、魂は、かなたの世界へと、すなわち、純粋で、永遠で、不死で、同じように有るものの方へと、赴くのである。そして、魂はそのようなものと親族なのだから、魂が純粋に自分自身だけになり、また、なり得る場合には、常にそのようなものと関わり、さまようことを止め、かの永遠なるものと関わりながら、いつも恒常的な同一の有り方を保つのである。なぜなら、魂はそういうものに触れるからである。
ケベス:ソクラテス、あなたの言われることは、まったく美しく、また真実です。
ソクラテス:魂と肉体が同じ者の内に有るとき、自然は、肉体には奴隷として奉仕し支配されることを命じ、魂には支配し主人であること命ずるのである。

ケベス:私もそう思います。
ソクラテス:では、魂はどちらに似ているのかね。
ケベス:もちろん、明らかに、ソクラテス、魂は神的なものに、肉体は死すべきものに似ています。

以上を要するに、『 一方には、神的であり、不死であり、可知的であり、単一の形相をもち、分解され得ず、常に同じように自分自身と同一であるものがあるが、この種のものに魂はもっとも似ているのであり、他方では、人間的であり、可死的であり、多様な形をもち、知性的でなく(無思慮であり)、分解可能であり、けっして自分自身と同一ではないようなものがあるが、今度は肉体がこの種のものにもっとも似ているのである。』・・・という結論になる。

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