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2014年6月 7日 (土)

明日香と阿知王(その3)

明日香と阿知王(その3)

2、 阿知王の子孫が日本を支えた! (2)

私は、阿知王の子孫が日本に貢献した最大のものは、以上述べてきた医療に関わる文化面にあると考えているが、もちろん政治面でも大きな役割を果たしたのであり、坂上田村麻呂を見れば判るように、そのことは言うまでもないであろう。坂上田村麻呂については、次を参照されたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai08s.pdf

坂上田村麻呂の場合は、軍事面で朝廷を支えたということだが、東漢(やまとあや)氏は、その語学力を生かして外交面でも朝廷で中心的な役割を担ったのである。

阿知王が明日香に来て間もなくの頃、阿知王とともに明日香にやってきた子供の「都加使主(つかのおみ)」は、早々と天皇のために重要な役割を担っていたようなので、そのことをここで少し紹介しておきたい。

雄略天皇の崩御のあと、天皇の位の継承を巡って「星川皇子の乱(ほしかわのみこのらん)」というのが起こった。それは朝廷と地方の大豪族・吉備との衝突でもあったのだが、「都加使主(つかのおみ)」は 総大将・大伴室屋を支える副大将として活躍するのである。

雄略天皇は、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちおみたさ)が自分の妻・稚媛(わかひめ)の美しさを自慢するのを聞いて、田狭(たさ)を任那の国司と して派遣した後で、稚媛(わかひめ)を奪って妃とした。 任那に赴いた田狭を待っていたのは、 妻・稚媛が雄略天皇に略奪されたとの報だった。田狭は新羅と同盟して天皇を討伐する事を企図するが、日本と不仲だった当時の新羅には入国する事も出来なかった。田狭の動きを知ってか知らずか、天皇は吉備弟君と 吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)、西漢才伎歓因知利 (こうちのあやのてひとかんいんちり)の3人に、新羅討伐を命じる。吉備弟君は、田狭の次子だった。新羅討伐の為に百済へと赴いた弟君に田狭は使いを送り、叛乱の意思を告げる。これに賛意を示した弟君は、田狭と共に新羅・百済と同盟し、天皇討伐計画を練り始める事になった。しかし、この事態を見逃せなかった弟君の 妻・樟媛(くすひめ)は、 夫を殺して計画の妨害を図った。この為、田狭の計画は頓挫してしまう。こうした状況下で、稚媛(わかひめ)は、雄略天皇との間に星川皇子を儲けた。

稚媛(わかひめ)は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。星川皇子 は母の言葉に従い、反乱を起こし、大蔵を占領した。しかし大蔵に火を放たれ、星川皇子と稚媛(わかひめ)のほか異父兄の兄君(田狭と稚媛の子)など従った者の多くが焼き殺された。吉備上道臣(きびのかみつみちおみ)は星川皇子を助けようと軍船40隻を率いて大和に向かったが、殺されたことを聞いて途中で引き返した。

このように、「星川皇子の乱(ほしかわのみこのらん)」は、新羅や百済が絡んだ争乱なので、当然、新羅や百済に対する外交が重要で、 都加使主(つかのおみ)の根回しがあって新羅や百済は反乱軍に味方をするような馬鹿なことはしなかったのであろう。私は、 都加使主(つかのおみ)の功績は誠に大きったと考えている。

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