« 医心方(その6) | トップページ | 医心方(その8) »

2014年6月26日 (木)

医心方(その7)

医心方(その7)

第1章 中国伝来文化と医心方

第2節 中国伝来文化について(1)

1、縄文商人

縄文時代の商人ネットワーク。交易の主人公は当然商人だ。卑弥呼の朝貢も国ベースの交易だが、それには商人が深く関与していた。卑弥呼の朝貢にも、当然、商人が深く関与していた。したがって、魏志倭人伝を正しく理解するには、商人の存在を考えねばならない。道中の道案内だけでなく、魏の王への橋渡しを商人のボスがやったのである。

魏志倭人伝の時代、当時の商人のボスはどういう人か? 大陸にネットワークを持つと同時に、倭の国にもネットワークを持っている人であろう。倭の国のネットワークとは、渡来人のネットワークである。それは日本海沿岸の渡来人の多く住む所である。

では、縄文時代、当時の商人のボスはどういう人か? この時代、まだ安曇一族とか海部氏というものは存在しない。それぞれの地域で海の民が活躍していただけだ。広い範囲でそれらを束ねる権力者はまだ登場していない。したがって、海の民の活躍を知るには、歴史的な文献ではなく、考古学に頼るしかない。しかし、考古学によって、海の民のおどろくベき活躍が判明している。海の民は、三万年前に熱海を拠点として大活躍をしていたのだ。 熱海の「海の民」の回帰的威信財「黒曜石」は、江ノ島に河口をもつ境川を通じて相模原台地まで運ばれたが、それも当然舟運によった。熱海の「海の民」の太平洋の支配は、少なくとも、相模湾と駿河湾に及んでいたと思われる。さらに、最近の研究によると、長野県の黒曜石が関東一円に広がっていることがわかってきた。これは一人の縄文人が、たまたま移動したレベルではなく、交易で広く流通させたことを想像させる。

また、三内丸山遺跡から出土した翡翠の産地は、新潟県の糸魚川周辺だったこともわかっている。長距離輸送を行ったのだ。そして、これは長い時間をかけて人の 手を通じてリレーのように渡って行ったと考えるよりも、翡翠を扱う商人が遠路運んだと想定した方が無理がない。おそらく貨幣のように、価値ある品として代 償物資と交換したのだろう。そこには交換レートみたいなものが必要だし、売り手市場・買い手市場が存在しただろう。
この問題については、考古学的な証拠はないので、頭の中で想像するしかない。黒曜石や翡翠を遠路はるばる運んできて、またもとのところまで帰らなければならない。交易をして交換物を持ってもとのところまで帰るとしたら、その交換物は軽くて持ち運び易いものでなければならない。それは何か?  そんなものを想像することができるか? 私にはおおよそ想像できない。私は、黒曜石や翡翠を遠路はるばる運んできた人たちは、黒曜石や翡翠とその地域の特産品と交換したのだと思う。その地域の特産品は、近隣の部族と交換できる。黒曜石や翡翠を遠路はるばる運んできた人たち、それは縄文商人と言って良い人たちであるが、縄文商人は黒曜石や翡翠を遠隔地まで運んできて、またもとのところまで帰っていく。その帰り道を想像してほしい。近隣から近隣と渡り歩きながら、それぞれの地域の特産品を商取引きしたのである。その渡り歩いた人達こそ商人以外の何ものでもない。間違いなく縄文商人は存在したのである。


« 医心方(その6) | トップページ | 医心方(その8) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/56613651

この記事へのトラックバック一覧です: 医心方(その7):

« 医心方(その6) | トップページ | 医心方(その8) »