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2014年6月19日 (木)

明日香と阿知王(その15)

明日香と阿知王(その15)

5、 甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)(4)

(4)中臣神道のプロトタイプ

梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言っており、上でその事を述べた。しかし、実は、その原型となる神事を朝廷で行ったのは允恭(いんぎょう)天皇であり、梅原猛は、次のように述べている。すなわち、

『 甘樫丘は允恭帝の時に盟神探湯(くがたち)が行われたところであり、それは氏姓(うじかばね)の混乱を正すための、裁判の丘である。天武帝はどこかでこの允恭帝の意志を受け継いでいる。天武帝は氏姓の混乱を正すために歴史の編纂を志され、遂に新しく「八色の姓」を定めるとともに、律令の基礎をつくり、また、新しい祓いの神道を始められた。』

『 この天武帝の精神を受け継ぎ、律令を完成したのが、藤原不比等といってよかろうが、不比等は天武帝から、国史の編纂、律令の制定、祓いの神道の定例化など多くのものを受け継ぎ、それを完成せしめたのである。甘樫丘で允恭帝が行った盟神探湯(くがたち)の神事の精神こそ、不比等の政治の精神であったのである。その意味で飛鳥は、ここにおいても不比等の中に生きているのである。』・・・と。
まずは、盟神探湯(くがたち)についての音声による簡単な説明があるので、それを聞いてください。

盟神探湯(くがたち)については、日本書紀の允恭天皇四年九月条に、このような記事がある。

『 諸氏姓の人を斎戒沐浴させ盟神探湯(くがたち)させられた。味橿丘(うまかしのをか)の辞禍戸岬(ことまがとさき)に探湯瓮(くかべ)を据え、諸人を引いていき、「実を言うならばなんともなく、偽る者は必ず火傷する」と言った。諸人は木綿襷(ゆふたすき)を着けて釜に赴き探湯した。実を言う者はなんともなく、実を言わない者はみな火傷したので、ことさら偽る者は愕然として退き、釜に進まなかった。これより後、氏姓は定まり、偽る人はいなくなった。』・・・と。

当時、諸氏族は数多くの支族に分かれて乱立し、てんでばらばらに出自を飾って氏姓の乱れが激しかった。そこで允恭(いんぎょう)天皇はこれを正そうとされ、味橿丘、つまり現在の甘樫丘の先端部分で盟神探湯(くがたち)を行わせたのである。

なお、 盟神探湯については、 前之園亮一の論説「宋書南斉書・名代・猪膏から見た氏姓成立と盟神探湯」(2003年3月、学習院史学の黛弘道先生退任記念号)によれば、火傷の治療薬として猪膏(ぴんいん)が大量に用意されたらしい。

前之園亮一は、『 湯による火傷の治療には2週間以上もかかるので、盟神探湯の裁判を受ける被判者一人一人に相当の量の猪膏(ぴんいん)が必要である上に、盟神探湯裁判では氏姓を争う双方の氏族が集団で争うので、一回の盟神探湯で何十人、何百人という火傷の患者が発生し、その治療に膨大な猪膏(ぴんいん)を必要としただろう。』・・・と言っている。また、彼は、阿知王の一族によって、後年医心方に書かれたようないくつもの治療法が適宜適切に使われたことを示唆している。

允恭(いんぎょう)天皇の行った盟神探湯(くがたち)は、神事のみならず、火傷の治療にも阿知王の一族が重要な役を担ったのである。

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