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2014年6月27日 (金)

医心方(その8)

医心方(その8)

第1章 中国伝来文化と医心方

第2節 中国伝来文化について(2)

2、弥生時代から古墳時代にかけての中国伝来文化

歴史の連続性というものを考えたとき、弥生時代から古墳時代にかけても交易商人の活躍はあった訳で、クニグニができていくとそれら交易商人によって朝鮮半島をへて中国の文化が日本に入ってきたと思われる。
丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られている。このため丹後が古 代の鉄生産の一つの根拠地として位置していたのではないかと考えられている。ガラスの釧(くしろ)で一躍有名になった岩滝町の大風呂南遺跡(弥生後期後半)だが、じつは 「鉄」の遺跡としても非常に貴重な存在なのだ。全国最多の11本の鉄剣が出土しているが、その内9本は柄が着いておらず、「はじめから鉄製品を作るための素材だった可能性もある。」と岩滝町教育委員会文化財調査員の白数(しらす)真也氏は語る。
邪馬台国より前の時代に、丹後地方では中国からの伝来技術によって、ガラス製品や鉄器の製造が行われたということは、歴史認識として私たちはしっかり頭に入れておいた方が良い。

後漢時代、後漢の光武帝が「漢委奴国王」と刻印された金印を日本の王に授けたという話はあまりにも有名であり、いろいろな書物も出ているので、ここでは、邪馬台国以前においても国家的な力によっても中国からの伝来文化があったという点だけを指摘するにとどめて、以下においては、あまり知られていない話として、青銅鏡の話を少ししておきたい。

弥生時代の中期、北部九州では、甕棺墓に前漢鏡が副葬されるようになった。北部九州でも玄界灘沿岸の地域では、須玖・岡本遺跡や三雲遺跡などで20枚とか30枚もの大量の青銅鏡を副葬した甕棺があるが、墓に銅鏡を副葬するという風習は、古墳時代にも引き継がれて、日本全国に広まったようだ。

中国では、青銅鏡は、夏の時代から墓に副葬される葬具として重用されてきた。漢の時代に入り、それ迄の多くの墓は王候貴族のものだったが、武帝時より官僚層まで造墓が盛んになる。前漢中期には民営の工房もでき、青銅鏡は売買の対象になっていたようだ。当時の青銅鏡は、道教の影響を深く受けており、神獣鏡や画像鏡の神や主要人物には道教信仰の神仙や伝説人物が多いのが特徴的である。

邪馬台国の時代より前、後漢後期の鏡「三段式神仙鏡」が日本に入ってきていたらしい。前橋市天神山古墳から出土した「三段式神仙鏡」が邪馬台国の時代より前に日本に入っていたという確証はないが、中国では当時公益商人の手によって売買されていたことを考えると、公益商人によって日本にもたらされたと考えても決して荒唐無稽の話ではなかろう。
前橋市天神山古墳から出土した「三段式神仙鏡」は、明らかに道教の神仙思想を象徴したものであるので、私は、「三段式神仙鏡」の伝来とともに、道教の神仙思想も日本に伝わってきたと考えている。斉明天皇は道教の神仙思想によって二つの宮殿「宮滝宮」と「両槻宮」を作るが、漢の時代から道教の思想は日本に伝えられていたのではないか、というのが私の考えである。


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