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2014年6月13日 (金)

明日香と阿知王(その9)

明日香と阿知王(その9)

4、桧隈寺(ひのくまでら)と 於美阿志神社(おもあしじんじゃ)(1)

(1)概要

桧隈寺(ひのくまでら)と 於美阿志神社(おもあしじんじゃ)は、 明日香村の檜前(ひのくま)というところにある。

檜前の地図は次をクリックしてください。
http://www.its-mo.com/map/top_z/124032651_488900626_14/

桧隈寺(ひのくまでら)と於美阿志神社(おもあしじんじゃ)は、高松塚古墳とキトラ古墳のほぼ中間、山間の狭い地域にある。阿知王が、渡来してきてそこに住みつき開拓した地域である。阿知王の一族が営んだ寺として桧隈寺(ひのくまでら)があるが、 於美阿志神社(おもあしじんじゃ) はその鎮守の社(やしろ)であったらしい。祭神は阿知王御夫妻である。

於美阿志神社(おもあしじんじゃ) については、次のホームページが判りよいので、まずそれを紹介しておきます。
http://www.genbu.net/data/yamato/omiasi_title.htm

また桧隈寺については、次のページをご覧ください。
http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/hinokuma.htm

現在の於美阿志(おみあし)神社は、1907年(明治40)、寺跡に移されたものである。その時の事情なり状況について、私は知らない。然るべき調査が必要だ。私が想像するに、ほとんど無きに等しい状態ではなかったか。肝心の桧隈(ひのくま)寺自体がほとんど無きに等しい状態であったようだ。
本居宣長の『菅笠日記』は、彼が明和9年(1772年)に飛鳥・吉野を訪ねた時の記録であるが、宣長が訪れた当時の檜隈寺は十三重石塔(現在は重要文化財になっている石塔)と仮の庵が残るのみで、境内には古瓦が散乱していたという。

『日本書紀』の朱鳥元年(686年)8月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺に各百戸を封ず。三十年を限る」と見えるのが文献上の初出である。『書紀』のこの記事から、当時檜隈寺が存在したことがわかるが、この寺名が正史にみえるのはこの時のみである。

鎌倉時代の『清水寺縁起』には大和国高市郡檜前郷に「道興寺」という寺のあったことがみえ、中世には道興寺と呼ばれていたことがわかる。1908年に大阪府中河内郡で出土した永正10年(1513年)銘の梵鐘には「大和国高市郡檜前」「奉道興寺鐘」という文言があり、当時、道興寺が存続していたことがわかる。

現在の於美阿志(おみあし)神社は1907年(明治40) に移設されたものであるとしても、明日香に阿知王を祭神とする於美阿志(おみあし)神社が現に存在している。その歴史的意義を考えて、明日香のこれからの観光に役立てるべきである。観光とは光り輝くものを観るものである。於美阿志(おみあし)神社は本来光り輝くものであるが、今は埃にまみれてしまっている。これではいけない。大いに磨きをかけて輝かせようではないか。阿知王を祀る神社は全国にいくつかあるので、これからの課題として、於美阿志(おみあし)神社が中心となりそれら神社と連携して、合同のお祭りを構想すべきである。中国から「道教」の僧侶に参加してもらうのも大変意義のあることである。



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