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2014年6月14日 (土)

明日香と阿知王(その10)

明日香と阿知王(その10)

4、桧隈寺(ひのくまでら)と 於美阿志神社(おもあしじんじゃ)(2)

(2)阿志神社(あしじんじゃ)

阿知王を祀る神社が全国にいくつかある中で、渥美半島の伝承は大変面白いし歴史的な意味もあるので、ここにその伝承に触れておきたい。

渥美半島の真ん中あたりに「阿志神社」という小さな神社がある。これからこの神社にまつわる伝承を紹介するのだが、まずは、渥美半島というところについての歴史認識をお話ししておきたい。
渥美半島というところは日本の中でもっとも古くから栄えたところで、最初の日本人はこの渥美半島に住みついた。おおよそ5万年前のことである。その人たちのあるグループは、数百年の年月を経て、豊橋から設楽、飯田、伊奈と北上し、諏訪湖に至る。そして八ヶ岳周辺に住みついてのち、全国各地に拡散していく。黒潮に乗って船で東北方面に向かったグループもあったようだが、旧石器人の全国拡散は八ヶ岳に住みついた人たちが中心であったようだ。旧石器時代から縄文時代のわが国の中心は八ヶ岳であったようだ。渥美半島の人たちと諏訪湖の周辺に住む人たちの間に交流があったようで、それを証明するものとして、渥美半島の付け根の高師というところと諏訪大社のあたりから出土する「高師小僧」と呼ばれいている縄文製鉄がある。「高師小僧」の出土した所は、現在、三河黒松で有名な「高師緑地」として市民に親しまれている。

渥美半島には、縄文~弥生時代に、吉胡・伊川津・保美の三大貝塚をはじめ、数多くの遺跡が存在するし、古墳~奈良時代の遺跡として城宝寺古墳、向山古墳群、山崎遺跡、藤原古墳群などの遺跡が存在する。奈良時代になってからも、旧石器時代から縄文時代の海上交通を引き継ぐ形で、太平洋側の豪族は舟運に長けていたようである。「白村江の戦い」の総司令官は、現在の静岡県静岡市清水の豪族「庵原氏」であった。
奈良時代の東海道というのは、陸路もあったけれどやはり中心は海上交通であったようだ。そして陸路といえども海上交通を中心に道の整備を行われたので、現在の東海道とはまったく違う道路網が形成されていたのである。その一つの例が渥美半島であって、渥美半島に東海道が通っていた。
『続日本紀』延暦四年(785)六月の条には、「東漢氏の祖・阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきた」と、阿知王の末裔で下総守の坂上苅田麻呂が述べたと書かれているが、坂上苅田麻呂は下総守を拝命していたのである。そして、ご承知のように、上総国と下総国の場合、元々東海道は海つ道(海路)であり、房総半島の南部の上総国の方が畿内により近い位置関係にあったのがその由来とされたのであって、奈良時代の交通は海上交通が中心であったのである。下総国は、東海道に属する一国であり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11郡であり、現在の東京都葛飾区や千葉県佐原市を含んだ広大な国であったのである。
このようなことを考えていくと、下総守の坂上苅田麻呂は海上交通を重視していた可能性が高く、その要衝の地として渥美半島に一族を置いていた可能性がある。そのときに「阿志神社」が創建されたのではなかろうか、私はそんな風に想像している。

さて、「阿志神社」の最古の記録は「文徳実録」 に「仁寿元年(八五一)冬十月従五位下 を授く」とある。「延喜式神名帳」にも 「渥美郡一座阿志神社」とあり、郡内唯 一の式内社となっている。阿志神社の源は、大和朝廷に文化・技術をもたらした 渡来人の阿智使主を祖神とする奈良県明 日香村の「於美阿志神社」であることは言うまでもない。
「阿知神社」は、戦国時代から江戸時代初期にかけては 荒廃していたが、寛文四年(一六六四) 田原藩主となった「三宅能登守康勝公」によ り再興されたと伝わっている。夢枕に立った神様からお 告げがあったとされており、領内三十三 ヶ村に命じて社殿を造営し、燈籠二基を 奉納した。代々の藩主も厚く崇敬し、参 勤交代の際には参拝して道中の無事を祈 ったと伝えられており、大草村から伊良 湖村にいたる表浜一帯が氏子であった。

ちょっと話が長くなって恐縮であるが、三宅能登守康勝が田原城の城主になったいきさつを説明しておきたい。
田原は渥美半島の中央部にあり、明応4年(1495)戸田弾正左衛門宗光が田原城築いた。戸田氏は藤原氏の末裔といわれているが、碧海郡上野庄の庄官だった宗光は西三河から渥美半島に移り、田原に居住した一色七郎の遺領をうけて田原城を築き、これを本拠として渥美半島を統一したのである。
さらに東方に進出しようとした宗光は、田原城を子の憲光に譲り、二連木城を築いて移り、東三河の宝飯、八名2郡勢力を伸ばした。その後、松平清康や今川氏の攻撃をうけたが、よく防ぎ、天文6年(1537)4代の宗光の代には吉田城を攻略している。子の尭元の天文15年、抬頭してきた今川義元に吉田城は奪われた。天文16年、今川義元のもとに人質として送られる松平広忠の嫡子竹千代(後の家康)を塩見坂に奪って、尾張の信長に送った。竹千代を奪われた義元は大いに怒り、同年9月、田原城を攻略、ひとまず戸田氏の名は消える。その後、義元部将、岡部石見守輝忠、朝比奈肥後守元智が城代として入城。永禄3年(1560)桶狭間に義元が敗死すると、家康は本多豊後守広孝に田原城を攻撃させ、広孝を城主とした。広孝の子、康重の天正18年(1590)徳川氏の関東移封と共に本多氏も上野臼井に移り、東三河の大部分は吉田城主池田輝政の領有となった。慶長5年(1600)池田氏は播州に移封、翌6年、戸田尊光が父祖伝来の地に再入封、その後、55年目に御家再興がかなった。尊光、忠次、忠能、忠昌の三代60年続いて寛文4年(1664)肥後天草富岡城に移り、代わって三宅康勝が入城したのである。

三宅一族は、すべて名前に「康」の字がついており、その名から徳川家康の重鎮であったことが伺えるが、実際に徳川幕府の重鎮であったのである。松平家に松平元康(後の徳川家康)が現れると、三宅正貞は永禄9年(1558年)に松平元康の家臣となった。その子が三宅康貞であり、三宅康勝はそのひ孫である。その後、江戸時代には挙母藩主を務めた後、田原藩主として幕末まで存続した。この田原城主・三宅氏の江戸藩邸付近の坂が東京の最高裁判所付近の三宅坂である。

田原城は、田原市の市立博物館のあるところにあった。

堀や石垣など当時の面影も残っているので、皆さんも機会があれば、「阿志神社」と田原城を目玉とした渥美半島の観光に出かけられると良いでしょう。



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