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2014年6月30日 (月)

医心方(その11)

医心方(その11)

第1章 中国伝来文化と医心方

第2節 中国伝来文化について(5)

3、飛鳥時代の中国伝来文化(2)

わが国の現在の神道は、藤原不比等が物部神道に道教の祓いの思想によって改良をくわえて大改革をしたものである。しかし、鏡が御神体であるという本質は台与の祭祀の時となんら変わっていない。それでは、藤原不比等が物部神道に改良を加えた大改革について、その経緯を説明するとしよう。

梅原猛が言うように、 記紀神話は、藤原不比等の「祓いの神道」によって作成された神話である。そして、この「祓いの神道」を国家計画化した古事記、日本書紀神話に よって、正に祓いこそ、日本神道最高の、或いは唯一の神事であるかのように思われるようになったのである。実は、藤原不比等の深慮遠謀というテーマで私は天照大神のことを書いたが、その真意は、不比等が政治の安定化のために天皇の神聖化を図ったというところにあった。しかし、不比等の狙いは「祓いの神道」、すなわち中臣神道の創造にあったということは思いもよらなかった。このたび梅原猛の著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んで、初めてそのことを知った。まさに眼から鱗が落ちる思いである。梅原猛の慧眼に今更ながら感服している次第である。

「祓いの神道」は、記紀神話を基盤としながら現在見るような神道の形式を整えていく。この中では中臣氏の功績がもちろん大きい。藤原不比等の時代、彼は一族を二つの流れに分割した。即ち、政治を司る 不比等の子孫を藤原姓とし、他を元の中臣姓に戻し、神祇を司らせた。中臣氏は祭祀を職とする氏として歴史に登場する。中臣の姓に戻って神祇を司ることは一 族の誇りでもあった。奈良、平安時代は藤原氏の権勢の許、中臣氏は精力的に、中臣神道がそれ以外の神祀りを駆逐して日本神道の本流となるべく努力した時代だった。

中臣氏は諸国の神社祭祀を画一化していく。地方独自の祭祀形式は現在にまで一部は残るが、神殿内の祭壇は中央のそれと特に変わる ことはない。中央に鏡、両側に榊を立て、酒、水、塩などを奉る。神社に参ると神主が紙垂を沢山束ねた大麻を振って私たちの不浄を祓い浄めてくれる。祓い浄め、実はこれが中臣神道の真髄なのである。鏡は天照の御魂である。天照は地上に降る孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に天の岩戸の前に掲げられた鏡を渡して、これを天照と思って大事に祀れ、と言った。このときから鏡 は天照の象徴となった。日本の神々は二種類に分けられる。高天原に発する天津神と土着の国津神である。全国の神社は圧倒的に国津神の社が多い。しかしそれ らの社にも一様に正面に鏡が据えられている。私たちは大国主や大国魂といった国津神の祀られている神社に参って、実は正面の鏡を通して天照を礼拝している のである。神主が大麻を振る姿は誰もが思い浮かべる神官の印象であろう。大麻で以て神主は参拝者の穢れを祓っているのである。この祓え浄めを神道の中心理論として 構築したのが中臣氏であった。

以上の通り、藤原不比等の深慮遠謀によって創られた天照大神と記紀神話によって、中臣神道は日本神道の中心祭祀となったのである。



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