« 御霊信仰の歴史的考察(その15) | トップページ | 宗教哲学のおもむき(その2) »

2014年5月27日 (火)

宗教哲学のおもむき(その1)

宗教哲学のおもむき(その1)

第2章 宗教哲学のおもむき

天皇の権威の文化化、それが御霊信仰である。靖国神社は、御霊信仰に基づいて創建されたが、明治政府の誤解というか偏見もあって、御霊信仰の文化化は行われずに今日に至っている。文化としてのお祭りが楽しく賑やかに行われるためには、祇園祭りのように、民間主導で行われなければならない。そのためには、然るべき啓蒙が必要である。信仰に関わる啓蒙、これはなかなかむつかしい問題であるが、信仰と啓蒙の問題についてはヘーゲルの哲学があるので、まずこれを勉強することとしたい。

第1節 ヘーゲル

1、ヘーゲルの弁証法論理

ヘーゲル(1770~1831)は、『 私たちは、世の中に対して「是とする意識」と「非とする意識」という矛盾する意識を持っており、その矛盾が信仰と哲学を生み出す』と考えた。

「是とする意識」とは、「あきらめの意識」であるかもしれないし、「迎合する気持ち」であるかもしれない。あるいは、「感謝の気持ち」を持つ場合もある。それに対して、「非とする意識」とは、世の中を批判的にみる「批判の精神」であり、場合によれば「恨(うら)みの気持ち」や「妬(ねた)みの気持ち」を抱くかもしれない。「非とする意識」はニーチェ(1844~1900)の「ルサンチマン」のことであり、哲学的に非常に深い意味を持った意識である。

「ルサンチマン」とは、ニーチェのキリスト教批判における中心概念で、「恨(うら)み」や「妬(ねた)み」を意味する。『道徳の系譜』(1887年)において、ニーチェは、キリスト教の起源をユダヤ人のローマ人に対するルサンチマンに求め、キリスト教の本質はルサンチマンから生まれたゆがんだ価値評価にあるとした。被支配階級であるユダヤ人は、支配階級であるローマ人の力強さ、能動的に生を楽しむこと、自己肯定的であることに対して「恨み」や「妬み」を抱き、このルサンチマンから、強い者は「悪い」、強くない私は「善い」、という屈折した価値評価を作り出した。この価値評価はさらに屈折の度合いを深め、「貧しき者こそ幸いなり」ということばに代表されるような、弱いこと、欲望を否定すること、現実の生を楽しまないことこそ「善い」とする価値評価が生まれ、最終的にキリスト教の原罪の考え方を産み出したとニーチェは考えた。キリスト教でいう原罪とは、人類の祖が犯した最初の罪のことである。蛇にそそのかされたイブとともにアダムが神にそむいて禁断の木の実を食べたことが旧約聖書創世記に記されているが、キリスト教では、アダムの子孫である人間は生まれながらに罪を負うとされる。そしてその原罪の考え方が、キリスト教特有の禁欲主義につながっていった。ニーチェは、そう考えたのである。ニーチェは、そのような反キリスト教の立場から「神は死んだ!」と言ったのである。

一方、ヘーゲルは、キリスト教を「是」とする意識と「非」とする意識を戦わせながら、弁証法論理によってキリスト教の「現代へのよみがえり」の道を見いだした。そのことについてこれから説明しようという訳だ。


« 御霊信仰の歴史的考察(その15) | トップページ | 宗教哲学のおもむき(その2) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/56324322

この記事へのトラックバック一覧です: 宗教哲学のおもむき(その1):

« 御霊信仰の歴史的考察(その15) | トップページ | 宗教哲学のおもむき(その2) »