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2014年5月20日 (火)

御霊信仰の歴史的考察(その9)

御霊信仰の歴史的考察(その9)

第3節 御霊信仰の文化化(1)

疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。その後も疫病の流行が続いたために、牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念したと通常言われている。つまり、869年(貞観11年)に、全国の国の数を表す66本の矛を「卜部日良麿」が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿(みこし)3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのがその起源であるという。「卜部日良麿」は、幼い頃から亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を習得した。神祇官の卜部となり、朝廷として重大な事を決するにあたって疑義が生じた時は、亀卜(きぼく)の能力を発揮したという。

しかし、「神道史大辞典」(薗田稔、橋本政宣編、2004年6月、吉川弘文社)によれば、祇園御霊会は「二十二社註式」に「天禄元年(970)6月14日始御霊会自今年行之」とあるので、その記述に従って970年、つまり神泉苑の御霊会の101年後と考えるべきだという。

私は、この「神道史大辞典」を支持したい。すでに第1節の「2、密教の呪力」で述べたように、平安時代以前にすでに、古密教は次第次第に陰陽道を凌駕するようになっていたのであり、空海の神泉苑での「雨乞い」によって朝廷の密教に対する信頼は揺るぎのないものになっていたからこそ、神泉苑の御霊会は天台修験道の僧・彗達(えたつ)を導師として行われたのであった。御霊においてもはや陰陽道のでる幕はなかったものと私は思う。祇園御霊会において陰陽道が神事を取り仕切ったという上記の話は、後年、祇園社の神官によって作られた話ではなかろうか。祇園御霊会は、当初、比叡山延暦寺によって執り行われたのである。

祇園御霊会は、6月7日に神輿(みこし)を迎えていろいろな神事をやってのち、14日にその神輿を送る儀式を行うという形で進められた。その神事には、馬長(うまおさ)、これは神事として神社の馬場を練り歩く人のことをいうが、そういう人や田楽師あるいは獅子舞師などが朝廷から差し向けられるなど、祇園御霊会は朝廷との繋がりの強い形で行われた。神泉苑での御霊会の場合と同様に、朝廷主催であったようだが、実際に祇園御霊会を取り仕切ったのはどうも天台密教の僧侶たちであったらしい。桓武天皇と最澄との関係は深く、比叡山延暦寺は朝廷守護のために創建されたようなものだが、「北野御霊会」と同様に、祇園御霊会も主催者である朝廷の要請により、実質的には、比叡山が取り仕切ったようである。おそらく神輿(みこし)は比叡山の神輿であろう。祇園御霊会を比叡山延暦寺が取り仕切った名残りは、今なお浄蔵の「山伏山」に残されている。

祇園御霊会は、970年のものを契機としてその後も毎年行われ、次第に民間色を強めていく。 当初から、一般民間からも種々の芸能の奉納があったらしいが、神事も平安時代末期からは洛中の富豪からの支援が中心となっていった。そうなれば、比叡山延暦寺としては祇園御霊会から次第に手を引くようになっていく。祇園社の独立性が次第に高まっていき、神祇官の支配が及ぶようになる。その結果、祇園社では、祇園御霊会がもともと神祇官によって開催されたと語られるようになったのではないか。私としては、祇園御霊会が当初の段階で比叡山延暦寺の力で行われていたということを主張したいのである。

10世紀の終わり頃、八坂神社は北野天満宮と共に比叡山の支配下に置かれた時期があった。この時期、八坂神社は日吉神社の末社とされ、日吉神社の山王祭が行われない時に祇園祭が中止になったり延期になる原因となったのである。


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