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2014年5月24日 (土)

御霊信仰の歴史的考察(その13)

御霊信仰の歴史的考察(その13)

第4節 御霊信仰の本質(3)

義江彰夫の説明はまだまだ続くのだが、再度ここらで中断して、「将門の乱」に際して「天神」と「八幡」がどのように絡むのか、そのことを詳しく書いた私のホームページがあるので、是非、それを読んでいただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/masakado.pdf

日本の国家というものが誕生して以来、天皇を中心とした統治形態が危機に直面した時、それは天皇そのものが危機に直面したということだが、そういう時というのは、菅原道真の怨霊が猛威を振るった時しかない。というのは、平将門が菅原道真の威を借りて、本気で天皇にとって変わろうとしたからだ。
おそらく、平将門が蜂起した時、全国の豪族に動揺が走ったと思う。豪族たちの精神状態としては、菅原道真の怨霊が平将門に味方しているとすれば、この際平将門の陣営に入った方が良いのではないか。いやいや、やはり朝廷に刃向かうわけにはいかないのではないか。そういう動揺である。この動揺を鎮めたのが浄蔵である。

如何でしたでしょうか? 浄蔵は天台密教の僧である。上に出てきた日蔵の兄である。浄蔵と言い、日蔵と言い、葛城の山に籠って修験道の修行を積み、強力な呪力を身につけるのであり、修験者でもあるのだが、彼らはれっきとした天台密教の僧である。比叡山延暦寺はその密教の力によって天皇を頂点とする朝廷をお守りしてきたのである。


さあそれでは再び元に戻って、義江彰夫の説明を続けよう! 彼は、引き続き御霊信仰の本質について次のように説明していく。すなわち、

『 将門の乱の鎮定を境にして、天神の行動は、王権に接近し、その中に入り込もうとさえするが、王権を破壊し、否定する行為はとらなくなっている。この結果、王権も、朱雀のあとを踏んで946年(天慶9年)に即位した村上天皇の時代に入ると、天神への積極的接近と抱き込みを図るようになる。959年(天徳3年)、娘安子(あんし)を村上の妃として、右大臣にありながら、事実上村上帝を輔弼(ほひつ)する地位を得ていた藤原師輔(もろすけ)は、それまで民間の手で五度にわたって増改築されていた北野社に、新築の自邸を社殿として奉納し、摂関家一族男女の摂関・皇妃としての繁栄を守護してほしいとの祭文を献納する(「北野天神縁起」「菅家御伝記」)。師輔(もろすけ)は、道真が生前良好な関係を保っていた忠平(時平の弟)の子であり、天皇家と摂関家の中でもっとも道真に接近しやすい位置にいた。村上と師輔(もろすけ)は合議の上で、和解と怨霊鎮静化の公的な第一歩を踏み出したのである。(中略)王権は30数年の歳月を費やして、辛抱強く、柔軟に、かげり始めた天神を取り込もうと腐心し、遂には、社殿や官位ねだりにまでそのめざすところを堕落させ、反王権のシンボルにまで高まった天神を王権守護神に変節させることに成功したのである。』

『 頼義・義家は、1060年代頃八幡と容易に結合する歴史を持っている天神信仰を、相模守菅原氏の安楽寺建立を通して実現したのである。この時代清和源氏が前九年の役を通して、東国武士を主従制的に大がかりに編成することに腐心していたことを想起すれば、東国の要(かなめ)相模国における八幡神と道真霊の導入と結合は、将門の乱の時と同様に、反逆心を宿す武士の感情を結集しながら、その力を国家的反逆を追討する戦いに収斂させ、またそれを通して「兵馬の権」樹立を目指す国家的反逆に従わせようとしての行為であったことが見えてくる。』

『 道真怨霊は都で如何に王権守護神になろうとも、将門の乱を支えたという歴史の記憶は容易に忘れられず、武士が表では朝廷に従いながら、地方から着々と実力を延ばしながら成長するという道を選んだ時、道真怨霊の記憶は再び息を吹き返して、以後長く、八幡とセットで自らの感情を支えるものとなってゆくのである。』

『 道真怨霊を乗り切った王権は、すでに974年(天延2年)祇園御霊会を主催し、以後も、それをこえようとして今宮御霊会、船岡山御霊会などが誕生するたびに、これらを抱き込み統合することに成功した。のちに朝廷は、御霊会のたびに御霊神の行列が内裏に乱入するのを許し、その間天皇は方違(ほうたがえ)をするという約束事まで作り出し、御霊会は王権の枠内であがくカーニバルに転化した。』

『 御霊会に始まり、道真怨霊=天神で跳梁を極め、祇園御霊会でふたたび祭りの枠内に終息してゆく怨霊信仰は、密教で統合された神仏習合の宗教運動であったゆえに、以上二見たような幅広い振幅と柔軟性を備えた社会・政治運動でもあったのである。』

『 密教で武装された怨霊信仰が、醍醐を死に追いやり、将門の乱を正当化しても、王朝国家を打倒できないことを知るに及んで、世俗レベルでは本来兼備していた王権擁護の面を全面に出し、王権の精神的支柱であることを強く掲げるようになった。この結果、護国の思想としての法華経と天台宗の勢いは真言宗を上回るほどに回復し、比叡山は顕教と密教をともに具備した王権守護の霊山となっていった。』

『 武士と寺社が、王権に接近し、それを支える動きを積極的にとるようになれば、王朝国家のもくろみはほぼ充全な形で実現されたことになる。』

『 こうして、怨霊信仰に触発されながら台頭してきた王朝国家は、そのエネルギーを全面に放出させ、存分に跳梁させた上で、その成果をすべて吸収して換骨奪胎し、それを通して自らの統治体制を完成の域にもっていったのである。』・・・と。



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