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2014年5月21日 (水)

御霊信仰の歴史的考察(その10)

御霊信仰の歴史的考察(その10)

第3節 御霊信仰の文化化(2)

それでは、比叡山延暦寺と祇園御霊会との繋がりに焦点を当てて、少し歴史的な話をしておきたい。
八坂神社は、当初、祇園社と呼ばれていた。八坂神社と呼ばれるようになったのは明治に入ってからのことである。祇園社の創建については諸説あるが、祭神は古くから牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)であったことは確実である。古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後(のち)の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。
平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。祇園祭は、貞観11年(869)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから祇園御霊会として毎年行われるようになった。祇園社は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の縄張り争いにより比叡山延暦寺が勝利して祇園社を比叡山延暦寺の末寺とした。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力および比叡山延暦寺から完全に独立した。さらに室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。

ここで比叡山延暦寺のことについて少し述べておきたい。比叡山延暦寺には、その権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っていて、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ「南都北嶺」と恐れられた。比叡山延暦寺は、配下に置いていた祇園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていたので、これを守る必要があった。一方、興福寺は、大和国一国の荘園のほとんどを領しており、その経済力で京に大きな支配力を及ぼしていたが、祇園社の領地にもいろいろとちょっかいをかけてきたようだ。強大な寺社勢力である延暦寺と興福寺を合わせて「南都北嶺」(なんとほくれい)と称されたが、この両勢力はいきおい衝突せざるを得なかったのである。「南都北嶺」(なんとほくれい)という言葉の中の「南都」とは奈良を指すが、とくに興福寺を中心とする南都仏教教団をいい、北嶺は比叡山延暦寺をいう。藤原氏の氏寺である興福寺は、摂関政治以降寺勢が拡大し、東大寺を除く大寺の別当は興福寺僧によって占められ、公卿の子弟で入寺するものも漸次増加した。一方9世紀の初頭、最澄が比叡山に天台教団を開創し、大乗戒壇を創設して以後、南都と叡山の確執が繰り返され、10世紀後半より出現した僧兵の武力を背景に,興福寺は春日社の神木、延暦寺は日吉社の神輿を奉じて朝廷に強訴(ごうそ)し、あるいは両者が互いに闘争を繰り返すこともしばしばあったのである。そういった闘争を繰り返した結果、京では比叡山延暦寺が勝利を収めていくのである。かくして、祇園御霊会は、興福寺ではなく、比叡山延暦寺が取り仕切ることになるのである。

そして、遂には、上述したように、民間色が強くなり、文化として定着していく。当初から、一般民間からも種々の芸能の奉納があったようだが、神事は比叡山延暦寺が取り仕切った。しかし、その神事も平安時代末期からは洛中の富豪からの支援が中心となっていき、 比叡山延暦寺としては祇園御霊会から次第に手を引くようになっていった。それがそのまま今日に及んでいる。祇園御霊会が今日の祇園祭に成長していくこのような過程を、私は、「御霊信仰の文化化」と呼んでいるのである。


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