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2014年5月23日 (金)

御霊信仰の歴史的考察(その12)

御霊信仰の歴史的考察(その12)

第4節 御霊信仰の本質(2)

これからまだ義江彰夫の説明は続くのだが、ちょっと一服して、かって私が書いた「神宮寺のはじまり」という文書があるので、それをご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/whatsnew/jinguuji.html

「多度仁宮司資財帳」によれば、神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するために、神の身を離れ、仏教に帰依することを求めるようになった・・・そのいきさつがよく判る。これを「神身離脱」というのだが、義江彰夫は、御霊会とは「神身離脱」現象の一形態だといっている。誠に的確な認識であると思う。したがって、前に戻るようなことで申し訳ないが、祇園御霊会が神祇官によって催されたなどという一般に流布されている神社側の説明は間違いであることをここでも再度強調しておきたい。

さて、義江彰夫の説明を続けよう!

『 さて、民間主催の御霊会がこのように発展してくると、王権は対応に苦慮した。神身離脱・神宮寺化問題は、王権の神祇官制度から離れようとするものであっても、王権の支えを必要としていたのに対し、御霊会は、まかり間違えば、反王権的存在になり得たからである。したがって、王権は、最初の御霊、崇道天皇が跳梁し始めた時から、ひたすら陳謝を尽くして、その鎮静を図ろうとしたのである。しかし、それが天災などを御霊の怨みの結果と見て御霊を祀るという形の御霊会として発展し始めると、容易に介入・鎮圧し得ないものとなった。如何に裏に反王権のエネルギーを蓄えようと、たてまえは天災回避の論理で貫かれていたためである。こうして、9世紀冒頭から9世紀半ばにかけて、御霊会は諸国のいたるところに出現するのである。』

『 ここにいたり、863年(貞観5年)、王権は御霊問題に正面から取り組まざるを得なくなり、神泉苑の御霊会が催されたのである。』

『 しかし、このような手立てを講ずることで、民間の反逆心に満ちた御霊会を根絶することはできなかった。神泉苑の御霊会が催された年からしばらくの間、朝廷は毎年御霊会を主催したようであるが、翌々年の6月14日京畿七道諸国を対象に民間での御霊会を禁じていることは、朝廷主催型御霊会による統制の限界をよく示している。こののち、民間での御霊会は多様な形で展開してゆくが、朝廷主催の御霊会は次第に行われなくなっていった。民間で発展した御霊会としては八坂神社の御霊会(祇園祭)と今宮神社の御霊会が有名である。』

『 奈良末・平安初期の御霊信仰・御霊会は、神身離脱・神宮寺建立の動きと社会的背景を共有しており、私的領有の生成と王権のそれへの対応が前者だったということができよう。とすれば、密教が御霊信仰・御霊会を論理化し正当化する役割を担ったのは、必然の帰結であった。』

『 菅原道真の怨霊が暴れまくった頃、理不尽な処置で人を死に追いやれば、その霊魂はその罪を犯した人すべてに報復を加え、遂には、最高責任者たる帝王をも殺しても致し方ないという認識が、当時の日本社会を覆っていたことは確実である。(中略)時平の死や清涼殿落雷やそれに発する醍醐の死という災いの重なりを、すべて、道真怨霊の仕業と理解する意識がこの時代の共通の心のあり方になっていたことは動かし難い事実である。』

『 浄蔵の弟・日蔵は、道真怨霊の跳梁が頂点に達したところで、冥界への旅を試み、道真霊の怒りと自己の罪を率直に認める醍醐帝の訴え、そしてそれらを背後で支える宇田法皇の言葉を聞くことに成功した。とすれば、日蔵のこの修験行為は、道真怨霊の跳梁を、理のあること、防ぎ得ないことに根拠づけ、道真の怨霊をかついで、反王権的行動に出るものを正当化するという意味を帯びることとなった。日蔵の冥界への旅の話は将門の乱が鎮定された、わずか一年後のことである。鎮定直後でさえこうであるとすれば道真の怨霊が将門の乱を正当化するものとして登場するのは不思議ではなかった。』

『 八幡の背後には王権に反逆するエネルギーが伏在していた。最近の研究によれば、奈良時代いらい宇佐八幡の神官とされた者は、記紀の中で王権に反逆する神として名高い大和三輪神社の神主大神(おおみわ)氏の一族と考えられる。律令国家の王権はこの反逆する神に仕える者を、外敵から国家を守る神を祀るものにすることで、そのエネルギーを外に向かわせようとした。しかし、対外的緊張が緩む9世紀末以降の時代に入ると、八幡神の裏側では、反王権勢力との暗々裡の連携が息を吹き返すことになる。しかも、この八幡は天神同様、神仏習合の神である。八幡神が応神などの皇祖神であり、同神が大菩薩と呼ばれていることは、何よりも有力な証拠である。天神が反王権の神仏習合神であるとすれば、それを上から支える八幡が神仏習合神として現れるのは当然であろう。密教の論理が王権を相対化できる正当化の思想であったことを想起すれば、天神・八幡ともに、王権に反逆する神として動く時、密教の衣を纏った神仏習合の神とならざるを得なかったのは必然であった。』



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