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2014年5月30日 (金)

宗教哲学のおもむき(その4)

宗教哲学のおもむき(その4)

3、キリスト教哲学(2)

さて、現実に私たちが持つ精神は、まだ「絶対精神」には至っていないので、私たちは「絶対精神」がどんなものか判らない。しかし、「絶対精神」の本質は「自己実現を果たした後の心の自由」であり、 理性的・道徳的な自由であるから、ここでは「絶対精神」をとりあえず「神の精神」と言い換えておこう。現実に私たちが持つ精神は、「神の精神」と対比するといい加減なもので、そのギャップに悩まざるを得ないが、その分離した精神の統一を図ろうとする努力によって、少しずつでも自己実現に近づいていく。すなわち、現実に私たちが持つ精神と「神の精神」との統一を図ろうとする自己意識とそれが現実にはなかなかうまくいかない自己意識の挫折とが繰り返されて、少しずつ自己実現に近づいていくのである。

そのようにして、 ヘーゲルは、絶対精神とそこからの人間精神の分離をまず行って弁証法論理を展開していくのだが、キリスト教哲学を語り始めるプロローグとして、ヘーゲルは宗教に焦点を当てた弁証法論理とはどのようなものかを明らかにしているのである。その後、そのプロローグを出発点として、キリスト教の歴史(物語)を語っていく。このキリスト教物語は、もちろん、宗教的な色眼鏡、キリスト教的な色眼鏡を外して語られなければならない。当時の人々の生活と「意志」がどのようなものであったかが明らかにならなければならない。当時の政治や経済や宗教がどのようなものであったかが、キリスト教的な色眼鏡を外して、ただひたすら歴史的事実に基づいて明らかにしなければならないのである。それらすべてが最終結論としてのキリスト教哲学を引き出す契機として語られねばならないのである。その際、特に大事なのは世界における善と悪という二契機の対立がどのようなものであったのか? ローマ帝国による支配の構造がどのようなものであったのか、そして人々の「不幸の意識」(岩井國臣の注:「不幸の意識」とは理想的な自分と現実の自分との間で引き裂かれる意識のことである。つまり、理想と現実の狭間で感じる不幸な意識である。しかし、そういう不幸な意識があって初めて、自己意識が働き、理性が働き、飛躍がある。)がどのようなものであったのか? そして、人々の抱く「救済への希望」というものがどのようなものであったのか? それらが語られねばならない。その上で、神の精神と人間精神を媒介する存在として人間キリストがどのように登場してきたのかが語られねばならない。
キリストはその「神性」を人々に示すが、同時に生身の人間として現実の中で格闘し、苦悩しするが、人間キリストとしての実態も明らかにされなければならない。なぜキリストは最後に十字架にかけられて死ぬのか? その実態もキリスト教という色眼鏡なしに明らかにされなければならない。キリスト教という色眼鏡をはずして史実を書くということは大変難しいことだが、ヘーゲルは可能な範囲で歴史的事実を明らかにして、キリスト教物語を語っていく。

キリストは十字架にかけられて死ぬ。しかし、「復活」する。この復活の意味について、『超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(竹田青嗣、西研、2010年5月、講談社)の章末解説で竹田青嗣は次のように説明している。すなわち、
『 この「復活」の意味は、単なる奇跡以上の重要な意味を持っている。それはつまり、生身の人間としてのキリストは死んでも、「精神(ガイスト)」としてのキリストの本質は、信仰を持つ人々のうちに不滅のものとして生き続ける、ということだ。「精神」の本質としてのキリストは、信仰を持つ人々の間で、つまり教会において「聖霊(ガイスト)」として復活し、生き続けることとなる。』・・・と。

心という言葉は、語義の成立の過程からも明らかで,洋の東西を問わず心は心臓の動きと関連してできあがり,それゆえ身体内部に座をもつ概念である。一方、精神は,英語のスピリットspirit,フランス語のエスプリesprit,ドイツ語のガイストGeistのことである。その意味するところは、〈風〉〈空気〉〈息〉などを意味するラテン語のスピリトゥスspiritus,ギリシア語のプネウマpneumaに由来するように,個人の身体をつらぬき個人の身体を超えて遍在する広がりをもつものである。こうした性格から、もともと精神という言葉は,人間の心や身体を支配する「霊魂」のイメージを帯びているのである。神や超越者の観念と結びついて倫理的・形而上学的な性格をつよめる意味合いから精神という言葉が使われることもあるが、その場合は、宗教的観念での「心」と理解しておけば良い。しかし、哲学的に「精神」と言う場合、私は「霊魂」という意味で使われているのだと思う。ヘーゲルはドイツ人なので、「ガイストGeist」という言葉を「霊魂」という意味で使っていると私は考えている。
もし私の考えが正しいとすれば、「復活」の哲学的解釈は、「キリストの霊魂は生き続けている」ということである。ちなみに、私の哲学的解釈を言えば、人の思い(心)というものが人々に与える影響は強弱があるが、キリストのような強烈な思い(心)を持っている人は、死んでからの霊魂もまた強烈なのである。霊魂についてはプラトンの霊魂論というのがあるが、「霊魂」というものは、神が存在すると同じように「自体存在」として存在する。

このようにして、ヘーゲルは、その「死と復活」をキリスト教哲学の中に織り込んでいくのである。そして、最終結論として、 キリスト教の歴史=物語は、人間が、自分自身を、「絶対精神」とその本質を共有する存在として自覚してゆく歴史であることが示されるのである。 そして、竹田青嗣が言うように、キリスト教というものがより本質的により自覚的に把握されるためには、「キリスト教哲学」が必要となる。そしてヘーゲルの考える「キリスト教哲学」こそが「絶対精神」の本質についての真の「知」であり、それに裏打ちされたキリスト教は「現代へのよみがえり」を果たすだろう。

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