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2014年5月 4日 (日)

正義の偽装(その64天皇論7)

「正義の偽装」(その64天皇論7)
以上今まで、天皇の聖性という観点からいろいろ書いてきて、今、天皇について思うこと・・それは「空」ということである。私は、国家の統治構造のあるべき姿を「中空均衡構造」と言っているのだが、ここにも「空」という文字が含まれている。では、そもそも「空」とは何なのか? 

「空」は何も無い空間ではない。何も無いように見えるけれど、実は、「力の充溢した空間」なのである。ここがいちばん肝心 なところである。
 このようにお考えいただければいいかもしれない。プラスの電子とマイナスの電子が一杯充満している としよう。外見上プラスマイナス0、すなわち「空」であっても、その空間には電子は充溢している。だから、その内包空間から多くの電子が外へ飛び出すこと もある。その電子が外に飛び出し、何らかの不可思議な形を作ろうとしている・・・・その様子が「翁」であり「宿神」である。
禅では、よく「馬鹿になれ」とか「幼児のごとく」とかいう。これも弁証法的な思考法であり、大いに 勉強をして賢くならなければならないのだが、さらに進歩すればその利口さが見えなくなって、馬鹿のように見えたり幼児のように見えたりする。私は、馬鹿に 見えたり幼児のように見たりするようでは、まだ修練が足りないのだと思う。普通がいい。「空」は、普通にしか見えないが、普通ではない。利口でもあり馬鹿 でもある。利口の要素はいっぱいあるし馬鹿の要素もいっぱいある。そこは臨機応変。利口にならなければならないときは利口になる。馬鹿にならなければなら ないときは馬鹿になる。臨機応変である。ものすごい力を発揮すべきときはものすごい力を発揮するのである。そういう人がいちばん偉いのだと思う。利口そう に見える人はあまりたいした人ではないのではないか。「空」とは利口の要素がないのではない。利口の要素はいっぱいある。一方、馬鹿の要素もいっぱいあっ て、利口か馬鹿か判らない。利口か馬鹿か判らないが、そこは臨機応変、利口でなければならないときは、誰にも負けない利口さが発揮される。「空」から利口 がいっぱい飛び出してくるのだ。「空」は「力の充溢した空間」なのである。

 私は先に、国の統治構造に関連して、中空均衡構造と いうことをいったが、天皇は「空」であることが望ましい。禅風にいえば、天皇は馬鹿のようになることが望ましいし、幼児のようになることが望ましい。天皇 は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴、そしてわが国民の象徴である。したがってわが国国民の統合の象徴である。天皇は、何にもない空ではなく、何でも ある「空」でなければならないが、それも国民次第である。「力の源泉」としての「空」であることが望ましいが、それも国民次第である。
 天台教学において、「中」とは、「空」と「仮」との調和をいう。つまり、根元としての「空」と、そこから現れてきた現象としての「仮」が矛盾することなく成立している状態を指すのである。
このように、「空」と「仮」の円融を強調したのが天台仏教であったが、華厳仏教は、一と多、部 分と全体、特殊と普遍などの円融を主張した。根源的な何ものかの存在を認めており、その根元的な何ものかが場面に応じてさまざまなすがたを現すと考えてい るところでは、この二つの仏教哲理はほぼ同じものと考えてよい。インドの空の思想において、空性が実体視されることは意識して避けられたのであるが、天台 や華厳の仏教においては空性はある種の実体あるいは根元とみなされるようになった。

さあ、それでは最後に『「空」に関するダライ・ラマの教え』を紹介しておきたい。「空」とはすごいですね!
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/dararama.html

 

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