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2014年5月29日 (木)

宗教哲学のおもむき(その3)

宗教哲学のおもむき(その3)

3、キリスト教哲学(1)

『超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(竹田青嗣、西研、2010年5月、講談社)では、ヘーゲルのキリスト教哲学について、章末解説で竹田青嗣は次のように説明している。すなわち、
『 見てきたように、ヘーゲルのキリスト教解釈には独自のものがある。彼はキリスト教の歴史(物語)のうちに以下のようないくつかの契機(岩井國臣の注:契機とは、ヘーゲルの弁証法の用語であり、事物の動的過程において、その変化・発展を規定する本質的・必然的な通過段階のことである。)を読み込んでいる。まず、絶対精神とそこからの人間精神の分離、そこから人間世界における善と悪という二契機の対立、普遍的な支配の構造と不幸の意識、救済への希望、そして神の精神と人間精神を媒介する存在の登場、その死と復活・・・・・・(中略)・・・・・。最後に、このキリスト教の歴史=物語は、人間が、自分自身を、「絶対精神」とその本質を共有する存在として自覚してゆく歴史であることが示される。しかし、宗教ではそれはあくまで「表象」としてつかまれるにすぎず、これが「概念」として、より本質的により自覚的に把握されるためには、哲学が必要となる。そしてヘーゲル哲学こそこの絶対精神の本質についての真の「知」である、とされるのである。』・・・と。

今私は、法華経哲学を今後作っていくためには、ヘーゲルの行ったキリスト教哲学の手法と同じ手法をとる必要があるという観点から、ヘーゲルのキリスト教哲学がどのようなものであったのかを書いている。そのプロローグが「絶対精神」についての記述である。
この竹田青嗣の章末解説にある「絶対精神」とはヘーゲルの哲学用語であり、なかなか難しい概念である。ヘーゲルによれば、「人間の持つ精神の本質というのは、自分の外部に根拠を持たぬものであり、弁証法論理によって、周囲の影響を受けることなく、自分が本来持っている真の自己を見いだすことができる。そのような自己実現を果たした状態のことを「絶対精神」という。ヘーゲルが目的としていたことは、哲学の体系を構築することであり、そこから過去と未来を哲学的に理解できるようになるということであった。それには現実の全てを理解できることに加えて、現実の全ての過程までも理解できる必要があり、それらができるのは「絶対精神」があるからである。ゆえにヘーゲル哲学の課題というのは「絶対精神」を獲得するための弁証法論理を展開する事なのでもある。そして、 ヘーゲルは、「絶対精神」の本質を「自己実現を果たした後の心の自由」と考えたらしい。もちろん、「自己実現を果たした後の心の自由」は私利私欲の自由ではなく、理性的・道徳的な自由である。

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