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2014年4月 9日 (水)

正義の偽装(その40空なる天皇7)

正義の偽装(その40「空」なる天皇7)
第2章 天皇
第2節 私の天皇論
3、天皇の聖性と政治的権力
(2)「空」なる天皇(7)

(2、2)日本の「歴史と伝統・文化」の象徴である天皇(3)

 私は先に、天皇はわが国の「歴史と伝統・文化」の象徴であるといったが、この点については、大いに議論のあるところであろう。もし私の主張が的を 得たものかどうかは、もちろん、今後の学術的研究に待たなければならない。私は、直感でそういっているに過ぎないが、何故そういうのかは若干の説明が必要 だろう。
 さて、すでに述べたように、明治時代というものは、明治天皇の父君である孝明天皇が何者かに暗殺され、明 治天皇が新政府の頂点に君臨することによって、わが国は強くなっていく。富国強兵をなし、列強諸国に伍してやっていけるようになったのも、そういう新体制 のお陰であり、私は、明治維新の歴史的必然性というものをひしひしと感じるのであるが、わが国がそういう歴史を歩むことができたのは何故であろうか。
 そこが天皇制を考えるときのいちばんの問題であり、もし私のいうように孝明天皇の暗殺を歴史的必然性と考えるのなら、この問題はわが国の「歴史と伝統・文化」をどう考えるかという問題に帰する。
 私は、わが国の「歴史と伝統・文化」を「流動的知性」にもとづく「違いを認める文化」だと考えており、そういう歴史的認識に立つならば、西欧列国 の植民地になるかどうかの瀬戸際にあって、やはり、わが国の国体を守るために当然の力が働いたと考えざるを得ないのではないか。明治維新は歴史的必然で あったと考えざるを得ない。孝明天皇の暗殺も歴史的必然であったと考えざるを得ないのである。私たちは「違いを認める文化」を生きているのであり、それが 外部の力によって損なわれるとき、私たちは自ずと結束してそれを守るのである。私たちはそういう国民であると思う。
 天皇制というものを考えるとき、もっとも参考になるのは、網野善彦の「異形の王権」(1986年、平凡社。1993年、平凡社ライブラリーに収録。)である。
 網野は、その著書のなかで、『 ・・・「権威づけの装置」の一つとして、儀礼を「家業」としつつ、天皇は江戸時代を通じてその地位を保ちつづけ た。なぜそうなったか、南北朝から戦国の動乱のなかでなぜ天皇が消滅しなかったのか。これはなお未解決の問題をいわざるを得ないが、それがさきの権威の構 造の転換の仕方に関わっていることは間違いなく、さらにまた後醍醐による「異形の王権」の出現と、その執念が南朝として、細々とではあれ存続しつづけたこ とに多少とも規定されていることは否定できない。室町幕府がついに南朝を打倒し切ることができず、北朝との合一という形で動乱を収拾せざるを得なかった事 実を、われわれは直視する必要がある。室町期以降、天皇家が生きのびた直接の出発点がここにあるとすれば、そこに後醍醐の執念の作用を認めないわけにはい かないのである。そして後醍醐は、非人を動員し、セックスそのものの力を王権強化に用いることを通して、日本の社会の深部に天皇を突き刺した。このことと、現在、 日本社会の「暗部」に、ときに熱狂的なほどに天皇制を支持し、その権力の強化を求める動きのあることとは決して無関係ではない、と私は考える。』・・・・ と述べている。

 その通りである。参考にすべき点が多く、今後しっかりと網野の「異形の王権」を勉強しなければならないと思う。しかし、その本で残念なのは、わが 国の歴史になぜ「異形の王権」が誕生したのか・・・・その点がどうもはっきりしないことだ。まだ学問的には未解決ということかもしれないが、たとえ学問的に未解決であったしてもある程度は思想として語っておく必要があるだろう。

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