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2014年4月30日 (水)

正義の偽装(その60天皇論3)

「正義の偽装」(その60天皇論3)

3、天皇の聖性と政治的権力

(1) 足利義満の暴挙・・・天皇の聖性を蔑ろにした結果の不幸

私は、天皇にとって歴史上最大の危機は、「平将門の乱」の時であると考えている。この時は、既に書いたように、浄蔵ら天台密教僧の呪力によって事なきを得た。日本の長い歴史の中で、政治的権力が完全に武士に握られた武士の時代にあっても、天皇の聖性は武士によってもおかされる事なく、天皇の聖性と政治的権力ははっきり分離されてきた。ただ一つ例外があるとすれば、足利義満の場合である。しかし、一見天皇制に危機があったと見えるだけで、私は、 足利義満の場合であっても、天皇制そのものが危機にさらされたとは考えていない。確かに 足利義満は恐れ多くも天皇の地位を簒奪しようとするが、所詮足利義満の行為は私利私欲によるものであり、彼に天命の下る筈もない。足利義満の行為は天皇の聖性を蔑ろにした暴挙というほかない。仮に、足利義満が天皇の地位の簒奪に成功していたとしても、それは一時的なことで、公家や地方豪族の支持も得られず、結局は、天皇制は続いたであろうと私は考えている。それほど天皇の聖性というものは歴史的に確立されているのである。

足利義満は明との正式な通交をかねてから非常に強く望んでいた。しかし1374年の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下との通交は認めない明国の方針であったため、幕府の交渉は実らなかった。1380年にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。
足利義満は、民国との勘合貿易をあきらめきれず、1401年には、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富(こいとみ)と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、遂に、明の皇帝・建文帝は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は1404年から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している。遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていたわが国では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が公家たちに多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。

足利義満の次男に義嗣という人物がいる。母は室町幕府評定衆摂津能秀の娘である。義満には子女が多く、長男の義持を除き男子は寺社掌握策に従って有力寺院の門跡に入れられ、高僧となった。義嗣も幼少にして三千院に入室し、稚児となった。そのまま行けば、義嗣もきっと高僧になったと思われるが、人生というものは判らないものである。こともあろうに、義嗣は父・義満の野望の渦に巻き込まれて、不幸な死に方をするのである。
日野業子(康子の叔母)に先立たれた足利義満の後室となり、北山第南御所に住したことから南御所と称された。1406年に、後円融天皇の皇后で後小松天皇の生母である通陽門院藤原(三条)厳子の崩後、義満は天皇一代で諒闇(天皇の服喪)が2度あるのは不吉であるという理由から、関白一条経嗣と通じて室である康子を天皇の准母とした。小松天皇は、先帝・後円融天皇と生母・厳子二人の崩御(ほうぎょ)によって2度喪に服したのであるが、足利義満はその虚を突いたのである。足利義満はまさに悪知恵に長けた人であったようだ。
そして、嫡妻日野康子を准母となし皇位簒奪計画が実行段階に至ったと判断した義満は、皇位継承者として義嗣に白羽の矢を立 て、還俗させて康子の猶子とし、北山第南御所に住まわせたのである。

以後義嗣は南御所若公と称された。義嗣は、藤原忠実に倣って童殿上(童形での参内)を遂 げ、義嗣と命名されて従五位下に叙された。その年、義満は後小松天皇に北山第行幸を仰いだが,この儀式は義満が上皇として天皇を迎える朝勤行幸に倣い、かつ義嗣を次期天皇として諸人に披露するものであった。義嗣は天盃を受けて廷臣蹲踞のなかで舞踏し、この行幸中左馬頭に任官、還幸、従四位下左中将に上る。翌月内裏で親王元服に準拠して元服、参議、従三位に叙任。以後公家から若宮と称され,後小松から受禅を待つばかりとなったが、1408年5月6日義満が急死し簒奪は未遂に終わる。
そこで義嗣の不幸が現実化する。義嗣は従二位権大納言に上るが将軍足利義持との間に不信を生じ、北畠満雅の乱と上杉禅秀の乱に謀反を唆された。義嗣は、神護寺に出奔したが捕らえられ、幽囚ののち殺害される。


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