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2014年4月12日 (土)

正義の偽装(その43空なる天皇10)

正義の偽装(その43「空」なる天皇10)
第2章 天皇
第2節 私の天皇論
3、天皇の聖性と政治的権力
(2)「空」なる天皇(10)

(2、3)「違いを認める文化」の象徴としての天皇(2) 

 日本人は、古代から、ありのまま自然と響きあって、日本人独特の感性を育ててきた。感性だけではない。考え方、すなわち思考もそうだ。レビーストロースの「野生の思考」といっていいだろう。
 私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は・・・・、「違いを認める文化」だと言っている。「違いを認める」ということは、上記の文脈でいえ ば、「非対称アシンメトリー原理」が働いているということであり、中沢新一のいう「流動的知性」が働いていることである。「流動的知性」が働いているという点から言え ば、「わび・さび文化」と言っても或いは「イキの文化」と言っても、それらは同じことでもある。それが「日本人の感受性」である。
 以上のように、「わび」、「さび」、「風流」、 「粋(イキ)」などといった「日本人の感受性」の問題は、日本の歴史的な大問題であるばかりでなく、未来の世界文明が切り拓かれるかどうかの人類の大問題 である。こういうと、誇大妄想的な・・・と思われる方も少なくないであろう。そこで、以下において、山折哲雄の著書「日本文明とは何か・・・パクス・ ヤポニカの可能性(平成16年11月、角川書店)」
  フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という問題意識が、急激に歴史の上に登場してきているが、山折哲雄はこれに関して次のように述べている。
 『 私の疑問というのは、こうだ。フクヤマ氏のいう通り共産主義の崩壊と冷戦構造の消滅によって、 たしかに「リベラルな民主主義」が最後に生き残りうる統治形態として歴史の最後の段階に浮上してきた。それはそれとして認めるとしよう。しかしながら氏の いうその「リベラルな民主主義」は、これまでの多くの歴史観がしばしば主張してきたように、はたしてこの地球上の各地に噴出してきた「民族」的な紛争要因 と「宗教」的な紛争要因までをも克服し、制圧することに成功するであろうか。近代文明が発展し、近代化のための諸装置がととのえられていくにつれて、それ らの紛争要因を、完全に根絶するところまではいかないにしても、せめて馴致(じゆんち)しコントロールすることに成功するであろうか、という疑問である。
 考えてみるまでもないことだが、これまでの歴史観や文明史観の多くは、それが社会主義の理論にもと づくものであれ、そうでないものであれ、「近代」の段階に入る過程で前近代的な「宗教」と「民族」の要因がいずれ克服され、極小化の方向をとるのだ、と主 張してきた。けれども、そのような歴史記述の常道は、今後もそのまま生きつづけていくのであろうか。そのような楽観的な「近代」歴史観は、その歴史解釈の 真実性をこれまでと同じように今後も維持しつづけることができるのであろうか。
 われわれは冷戦構造が崩壊したあとの世界の歴史的動向が、パレスチナ紛争、チェチェン紛争、湾岸戦 争やイラク戦争をみるまでもなく、世界の各地で民族と宗教による絶望的な対立の状況を生みだしていることを知っている。これまでの楽観的な近代史観や文明 史観が危殆(きたい)に瀕(ひん)している現場をみせつけられ、そのような歴史観を再検討せざるをえない状況に立たされているのではないだろう か。』・・・・と。

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