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2014年3月 8日 (土)

平将門の挫折(2)

平将門の挫折 2

2、坂東武士の期待

八幡大菩薩はもと北九州宇佐地方の土着信仰神。奈良時代に武力で国家を外敵から護る神に高められ、平安時代初期の九世紀半ばには王城鎮護の神とし て石清水(いわしみず)宮に勧請され、十世紀初めまでには応神天皇以下三神と認識されるようになった神である。だが、ここで注意しなければならないのはそ の称号である。菩薩とはもともと悟りをひらくまえの釈迦のことをいい、のちに大乗仏教で悟りを求めて修行する人を称していう。すなわち、八幡大菩薩とは、 菩薩のかたちをした八幡神という神なのだ。その八幡大菩薩がなぜ関東武士団の心を掴んだのか? そのことを理解するために、まず中沢新一の考えを紹介しておきたい。
中沢新一によれば、関東武士団の縄文時代から受け継いだ特質として、「野生の思考」があるという。中沢新一は、河合隼雄との対談集「仏教が好き!」(2003年8月30日、朝日新聞社)で次のように述べている。すなわち、
 『 東日本、岐阜あたりから東のほうは、もともと縄文文化圏ですから狩猟地帯なんです。また、アイヌの人たちを見てもわかるように、入れ墨をす る。ですから入れ墨をしたり、狩猟したりしている人たちの文化伝統の地域が、東日本に広がっていた。ところが都を中心にして発達した神道は流血を嫌います し、女性の血なんかも不浄だと恐れる。神道は清浄をもとめて、仏教は殺生禁断です。いずれにしても、東国の人たちの生き方、縄文的生き方にはそぐわないと ころがある。
 ところが東日本では諏訪神社が「動物を殺してもいい」という御札を配っていたんです。狩人たちはそれを持って、狩りに出かけていった。関西では、 春日大社なんかを見てもわかりますように、鹿をいっぱい飼いますでしょう。そして殺さない。ところが諏訪大社の場合は、鹿はいっぱいいるんですが、これは 大量に殺してサクリファイズします。供犠をする儀式をする。神社毎年数十頭もの鹿の首をはねて、それを」神前に並べる儀式を、明治になるまでずうっとつづ けていました。 』
『 関東武士は関西武士と、背景となる世界がまったく違っていました。そういう人たちが西の文化とぶつかったとき、彼等の生き方は否定されてしま う。』・・・と。

 そうだ。中沢新一の言う通りだ。「野生の思考」だ。何故八幡大菩薩が関東武士団の心を掴んだか。それは東国には、「東北」がもっとも濃厚だが、当時はまだ東国にも「野生の思考」が残っていたからである。 問題を解く鍵は「野生の思考」だ。何故八幡大菩薩が関東武士団の心を掴んだか。それは・・・・東国には、当時はまだ「野生の思 考」が残っていたからである。かくして関東武士団によって八幡神は全国に広がっていく。ところで、この・・・・全国的にもっとも数の多い八幡神社は、先に 述べたように本来は秦(はた)氏の氏神であった神が昇格したものである。
さて、次の問題は、 その八幡大菩薩がどういう風に誕生したのか、という問題である。
日本書紀ができるのが720年であるが、まあいうなればそのころ、藤原不比等(ふひと)が律令国家を支える基盤として中臣(なかとみ) 神道を完成していく。これに危機感を持ったのが秦(はた)氏ではなかったか。 秦(はた)氏がおそらく法蓮(ほうれん)に働きかけたのであろう。法蓮(ほうれん)は、すでに九州は 英彦山で山岳仏教を修得すべく修行中であったようだが、おそらく秦(はた)氏の意向にしたがって、宇佐の地で弥勒寺を創建、のちにその弥勒寺を宇佐八幡宮 の境内に移す。
中央集権的な律令国家が進みそうだ。もちろん、秦(はた)氏にも八幡(やはた)という氏神がある。それが律令国家と中臣(なかとみ)神道とい う・・・新しい国家システムに飲み込まれてしまいそうだ。宇佐の神も応神天皇と神皇皇后という母子神に摺り替えられてしまった。藤原不比等(ふひと)の進 める中臣(なかとみ)神道に飲み込まれるのではないか。そういう危機感から、弥勒寺の八幡宮への移設が実行されたのである。
かくして、八幡大菩薩が九州は宇佐の地に誕生するのだが、そののち、八幡大菩薩は和気清麻呂らの力によって山城の国は男山の石清水(いわしみず) 寺のあとに勧請される。その前に東大寺の境内に手向山八幡宮が建立されるが、男山すなわち石清水(いわしみず)への勧請はいうなれば八幡大菩薩の本格的な 中央進出である。そのあと誉田(こんだ)八幡(現大阪府羽曳野市)などもできる。そして、次第次第に・・・関東武士団の心を掴んでいくのである。実は、その際に、忘れてならないのは、秦氏の東北における影響力である。
秦一族は、特に東北地方の発展に大きな力を発揮していくが、このことを理解するには、物部氏のことをまず理解しておかねばならない。秦一族は、物部守屋が蘇我蝦夷と入鹿 に殺されてしまってから、物部一族の統括していた技術者集団を引き継いでいくのである。
谷川健一は「四天王寺の鷹」の中で、物部氏のことについて、日本の歴史を考える上で非常に参考になる事柄をいくつか記述してが、その中で物部氏の東北における勢力についても重要な指摘をしている。それを以下に紹介しておきたい。彼は、こう述べている。すなわち、
『 日本各地の守屋姓を名乗るもので、守屋の子孫と称するものは少なくない。諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だという説がある。』
『 物部一族の残党と名乗る人びとが東北北端の地に、かっての先祖の栄光を忘れずに生
きていた。』・・・と。

なお、以上の事柄については、かって私の書いた文書を要約したものである。この際、より詳しくご理解いただくために、その原本というかかって私の書いた文書を、この際、紹介しておきたい。興味のある方は、是非、ご覧いただきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/masasoku.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/8tanjyou.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai08.pdf




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