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2014年3月 9日 (日)

平将門の挫折(3)

平将門の挫折 3

3、朝廷の大戦略

「北の天神縁起」などによると、菅原道真が死んで幾月も経たないある夏の夜、道真の霊魂が比叡山の僧坊に現れて、尊意(そんい。道真が仏教を学んだ師)にこれから都に出没し、怨みを復讐ではらす決意を述べ、邪魔をしないようお願いをしたのだそうだ。その後、道真の怨霊は暴れまくることにな る。

その後数年経った908年10月7日、道真配流の首謀者のひとり藤原菅根(すがね)が54才でなくなったが、都では道真の怨霊の祟りだという噂が流れたが、翌年、道真の怨霊はいよいよ核心に迫っていく。

その詳細については、既に・・・・・で述べたように、時平の命を奪った道真の霊は、その後ますます激しさを加え、時平の子孫たちを次々と死に追いやり、遂に923年、醍醐天皇の皇太子の命まで奪うに至る。そして930年6月26日には、清涼殿(せいりょうでん)に落雷が起こった。これが凄かったようだ。昼すぎの頃、愛宕山の上より起こった黒雲はたちまち雨を降らせ、にわかに雷鳴を轟かして清涼殿の上に雷を落とし、神火を放った。
この結果、殿上の間に侍していた大納言藤原清貫は胸を焼かれて死亡し、右中弁平希世(まれよ)の顔は焼けただれた。また紫宸殿(ししんでん)にい た者のうち、右兵衛佐美努忠包(みぬのただかね)は髪が焼けて死亡、紀陰連(きのかげつら)は腹部が焼けただれて悶乱、安曇宗仁(あずみむねひと)膝を焼 かれて倒れ伏すというありさまであった。そして、この落雷で、天皇も病に伏し起きれなくなったしまった。おそろしや!おそろしや!
理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加え、ついには最高責任者たる天皇をも殺しかねないのだという認識が当時の人々の間にすっかり定着してしまった。

日本の国家というものが誕生して以来、天皇を中心とした統治形態が危機に直面した時、それは天皇そのものが危機に直面したということだが、そういう時というのは、菅原道真の怨霊が猛威を振るった時しかない。しかも、平将門が菅原道真の威を借りて、本気で天皇にとって変わろうとしたのだ。これはまさに朝廷(朱雀天皇)の危機である。おそらく、平将門が蜂起した時、全国の豪族に動揺が走ったと思う。豪族たちの精神状態としては、菅原道真の怨霊が平将門に味方しているとすれば、この際平将門の陣営に入った方が良いのではないか。いやいや、やはり朝廷に刃向かうわけにはいかないのではないか。そういう動揺である。この動揺を鎮めたのが浄蔵である。

日本の国の形、「国体」というものは、天皇の権威と政治の権力の複合形態である。この認識がもっと国民の間に浸透していけば、西洋型民主主義とは一味違う日本型民主主義が成熟していく、と佐伯啓司は言っている。私もまったく同感であり、この「正義の偽装」というシリーズは、そういう日本型民主主義で本来持っている民主主義の大欠陥を補っていこうという思想の下で書いている。したがって、日本の場合、天皇は絶対になくてはならない存在だ。その天皇という存在そのものが危機に陥った時が、日本の歴史上二度ある。一度目は平将門の乱の時であり、二度目はこのたびの終戦の時だ。天皇の戦争責任についてはいろいろな意見がある。私は、すでに書いているように、この度の戦争は、軍部の暴走とそれを許した枢密院によって引き起こされたものであり、天皇に戦争責任はないと考えている。しかし、マッカーサーに真実を見抜く能力がなかったら、日本の天皇制は終戦時になくなっていたかもしれない。また、戦後の日本を統治するのに天皇の存在というものが必要だったということもあるだろう。しかし、平将門の場合はまったくその逆で、平将門は天皇を敵として戦ったのである。このように考えていくと、我が国の世界に誇るべき天皇制の最大の危機は、平将門の乱の時に生じていたとご理解いただけるだろう。その天皇制最大の危機は、浄蔵によって回避された。そういう意味で、浄蔵は、歴史上もっとも輝かしい貢献をした人物である。

朝廷は、平将門をやっつけた人物は貴族に取り立てるという前代未聞の秘策を出して、平将門をつぶそうとする。先に紹介したNHKの番組ではそのことを強調しているが、そういう貴族取り立ての秘策も効果を発揮したかもしれないが、問題は、もっと基本的に、地方豪族の動揺をどのようにして鎮めるかであった筈である。全国規模で、特に東日本全体という広い範囲で、地方豪族が平将門陣営に付く恐れが多分にあったのである。私は、上述したように、 平将門が蜂起した時、全国の豪族に動揺が走ったと思う。豪族たちの精神状態としては、菅原道真の怨霊が平将門に味方しているとすれば、この際平将門の陣営に入った方が良いのではないか。いやいや、やはり朝廷に刃向かうわけにはいかないのではないか。そういう動揺である。もちろん、朝廷は、全国の寺社に将門調伏の祈祷を命令する。しかし、当時、怨霊や生霊にたいする秀でた呪力を持っていたのは天台密教の浄蔵であった。私は、朝廷の浄蔵に対する期待は非常に大きかったと思う。浄蔵は比叡山の延暦寺にこもり必死で将門調伏の祈祷を行うのである。将門の生き霊は四明岳(しめいがだけ)の将門岩に押し込められ、 将門の勢いは急速に衰えていく。浄蔵が大威徳法(だいいとくほう)という祈祷を行なう間、弓箭を帯した将門が、燈明のところに現われて、神の放った鏑の音が檀中に鳴り渡ったと言われている。浄蔵は比叡山にいながら、将門の降伏を悟るのであった。この浄蔵がいた比叡の四明ヶ岳には、将門岩と呼ばれる岩がある。平将門と藤原純友が、平安京を見渡しながら、謀反の密談を交わした所だと京都ではささやかれている。そのことについては、かって私の書いたホームページがあるので、それをここに紹介しておこう。

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kadoiwa.html

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