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2014年3月 2日 (日)

正義の偽装(その24第2章第2節1)

正義の偽装(その24)

第2章 天皇

第2節 私の天皇論(1)

1、律令制と天皇の聖性の確立・・・藤原不比等の深慮遠望

(1)律令制の確立

天武天皇の命で701年に完成した「大宝律令」に天皇の尊称が初めて明記され、その天皇を中心にした政治組織が完成したのである。律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らであるが、その中心的役割を果たしのは藤原不比等である。大宝律令の発令は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。大宝律令において初めて日本の国号が定められ、天皇を中心とした堂々たる国家が成立したのである。
7世紀後半以降、百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで、政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。そのため、近江令、飛鳥浄御原令を制定するなど、当時の政権は、唐・朝鮮半島の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。その集大成が大宝律令の完成であったという訳だ。
この律令制度によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。

藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできるのである。

太政官(だいじょうかん)とは、日本の律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関を指す。長官は太政大臣(だいじょうだいじん)。通常はこれに次ぐ左大臣と右大臣が長官としての役割を担った。
太政官は、平安時代になると、摂政や関白が天皇の代理として政治を執り行ったため、相対的に地位が低下したが、国政に関する最高機関として機能し続けた。武家社会の時代に入っても、鎌倉時代には政務機関として機能していたが、室町時代になると次第に形骸化が進み、単純に格式を表す職名になった。明治維新で律令制が廃止されるまで存在した。

天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する摂政とは異なり、関白の場合は最終的な決裁者はあくまでも天皇である。摂政関白は「天皇の代理人」であるため、天皇臨席などの例外を除いては、太政官の会議には参加しない慣例があり、天皇と太政官の間の政治的なやりとりを行う際には関白が事前にその内容を把握・関与することで国政に関する情報を常に把握し、天皇の勅命や勅答の権限を直接侵害することなく天皇・太政官双方を統制する権限を有したのである。これを摂関政治という。
関白の主要な職務は太政官から上奏される文書を天皇に先んじて閲覧する内覧の権限と、それに対する拒否権を持つことであった。

1016年(長和5年)に後一条天皇が即位すると道長は摂政となったが、間もなくその子の頼通にその座を譲った。その後も道長の外孫が天皇となることが続き、頼通は50年以上にわたって関白の座を占め続け、摂関政治の最盛期を築いた。

白河天皇が堀河天皇に譲位して院政を開始したことや、師実・師通の父子が相次いで死去し御堂流が主導権を握れなかったこともあり、摂関政治の時代は終焉を迎えた。

鎌倉時代以降は政治の実権が朝廷から武家に移り、朝廷内での権力も治天の君が中心となる体制が築かれたため、関白職の政治への影響力はますます薄れていった。

江戸時代の関白職は禁中並公家諸法度にて幕府の推薦を経ることが原則とされ、天皇第一の臣にして公家の最高位たる関白職は実質的に幕府の支配下にあったといっても過言ではない。




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