« 四天王寺(その23俊徳丸の思想3) | トップページ | 正義の偽装(その1「はじめに」1) »

2014年2月 2日 (日)

四天王寺(その24俊徳丸の思想4)

知られざる四天王寺

その24 俊徳丸の思想 4

折口信夫は、日本伝来の師弟関係のなかに、理不尽に怒る神と神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜(むこ)の民衆の絶対的な関係をそこに重ねて見ているのである。    

折口信夫の言いたいことは、神に対して「私が間違っていました。悔い改めます」と言うことではない。何が正しいか何が間違っているか、そのような道徳観念は文化であり、文化は歴史ともにでき上がったものである。ハイデガー流にいえば、それは枝葉の部分であって、人間の本質、すなわち根源的なものではない。したがって、人間の本質的なものは、道徳観念によって理解してはならないのである。折口信夫は、道徳観念というものが生まれるよりももっと以前の根源的なものを考えている。それが古代人の神に対する「恐れ」という訳だ。神はしばしば理不尽な怒りを発して、自然災害など自分ににいわれのないひどい仕打ちをする。人間には神の意図することがまったく理解できない。それはただただ理不尽なものに思える。しかし、それでも神の存在を信じ、神の指し示す道を黙々と歩むということことである。過酷な仕打ちを受けてもなお神を信じて神にしたがう人を見る時、神はそのような人々に対して救いの手を差し伸べてくれる。私はそう思うのである。   

このことは身毒丸の父・住吉法師が言い残した「お前にはまだ分かるまいが・・、自分とお前の身には先祖から受け継いだ病気がある。浄い生活を送って、身体を浄く保つことで血縁の間に執念深く根を張ったこの病いを一代限りで絶(た)やせよ。」という言葉とも重なってくる。さらに、身毒は、生まれたときから田楽師の座に属していて、安住の地を見出すことはない。そのために身毒丸は悩み、苦しみ、そのような宿命から逃れたいと思う。しかし、先輩の話を聞き、師匠の心の底から絞り出すような声を聞くことによって、今の境遇に身を任せ、前向きに生きることを決意するのである。前向きに生きることとは、折口信夫の考えでは、神に対する「恐れ」を感じながら、「罰が当たらないように」生きることである。   

折口信夫は、この小説の最後に、「 身毒は立ち上つた。こうしてはいられないという気が胸をついて来たのである。」・・・と書いている

中沢新一が「大阪アースダイバー」で言っている「俊徳丸の思想」とは、このような俊徳丸の生き方をする俊徳丸の考えである。それは、神に対する「恐れ」を感じながら、なんとか神に認めてもらう生き方をしなければならないと考える思想である。



« 四天王寺(その23俊徳丸の思想3) | トップページ | 正義の偽装(その1「はじめに」1) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/54831337

この記事へのトラックバック一覧です: 四天王寺(その24俊徳丸の思想4):

« 四天王寺(その23俊徳丸の思想3) | トップページ | 正義の偽装(その1「はじめに」1) »