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2014年2月 8日 (土)

正義の偽装(その6第1章第2節1)

佐伯啓思の「正義の偽装」その6
第1章 自由主義と民主主義について
第2節 佐伯啓司の指摘する民主主義の大欠陥1

佐伯啓思は「正義の偽装」の中で民主主義に関連して次のように述べている。すなわち、
『 「価値」とは、通常は意識の下に隠されており、何か大事なことがあると思い出されたように意識の上に浮上してきますが、通常はその多くが習慣になっているものです。だから、価値は「隠された文化」と呼んでもいいでしょう。ところが、戦後日本では、「価値」は黒板に板書できるのです。それは額縁に入れられて飾られているのです。「憲法」という額縁に堂々と入っているのです。たとえば第13条。「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については・・・最大の尊重を必要とする。」すなわち、生命、自由、幸福追求についての個人の権利が最大限の価値をもつ、とされている。そこへ第14条の「法の下の平等」と第9条の「戦争放棄」を加えれば、戦後日本の「公式的な価値」は明白です。これをもう少し集約して、戦後日本の「価値」とは、個人の自由、民主主義(あるいは平等)、物理的な幸福追求(物的豊かさの追求)、それに平和主義といってよい。』

岩井國臣のコメント:個人の自由、民主主義(あるいは平等)、物理的な幸福追求(物的豊かさの追求)、それに平和主義などという・・・憲法に書かれた価値は本当の価値ではない。佐伯啓思はそう言っているのである。佐伯啓思は本当の価値は「隠された文化」であると言っているが、日本の文化の心髄というものは隠されており、到底アメリカ人には理解できないものである。日本の文化の何たるかを知らないアメリカ人が作った憲法原案なんてものはおおよそ出来の悪いものとしか言いようがない。その出来の悪い憲法によって行われている日本の民主主義は、本来日本が取るべき民主主義ではない。すなわち、現在の民主主義はまがい物である。

『 戦後という時代のいやらしさは国民単位での自己欺瞞にあります。ごまかしと偽装にあります。利己心や自己の事情や我が身かわいさは、誰にでもある。だけれども、それをどこかで「はずかしいもの」として抑制する何かがなければならない。しかしそれに「政治的正さ」を与えてしまっては、それを抑制するものがなくなってしまう。かくて日本人の精神の劣化は極まってゆくのです。』

『 むき出しの利己心も欲望の解放も、そして、それを正義にしてしまう厚顔無恥も「本当は」日本人の精神ではないと私は思う。日本人にとっての価値の基軸はどこにあるのか、それを見いださない限り、この劣化に歯止めをかけることはできないのではないでしょうか。』

岩井國臣のコメント:日本精神は、聖徳太子の思想と俊徳丸の思想の渾然一体となったところにある。「聖徳太子」は、世界が強者だけで支配されてはならないと考える。世界は、合理的な思考と大地の豊かさが、ひとつに結びついた「和」のなかにあるとき、はじめて潜在的な力を開花させる。秩序が作られねばならないとき、戦いを通じて敗者となる者たちが出てくる。そうした敗者や弱者を排除しないで、自分の中に組み入れる度量をもった政治を行うこと。そういう世界を作り出すことが、「聖徳太子」という名前を使って表現された、日本人が目指していた政治の理想なのだった。「俊徳丸の思想」とは、折口信夫の小説「身毒丸」で述べられている俊徳丸の考えである。それは、神に対する「恐れ」を感じながら、なんとか神に認めてもらう生き方をしなければならないと考える思想である。うちのおばあちゃんが「そんなことをしていたら罰が当たるよ!」としょっちゅう言っていたが、そういうことだ。これらのことについて、私は、「知られざる四天王寺」で詳しく書いたので是非ご覧頂きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sitennouji.pdf

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