« 正義の偽装(その21第2章第1節3) | トップページ | 正義の偽装(その23第2章第1節5) »

2014年2月27日 (木)

正義の偽装(その22第2章第1節4)

正義の偽装(その22)

第2章 天皇

第1節 佐伯啓思の指摘(4)

岩井國臣のコメント:プラトンは、その著「国家」(藤沢令夫訳、1979年4月、岩波書店)で、彼の霊魂論を踏まえながら国家論を展開しているが、プラトンの基本的な思想は、『国家は、「知
恵」があり、「勇気」があり、「節制」をたもち、「正義」をそなえていなければならない。』というものである。プラトンは、勇気ある国家とは国民が命をかけて戦争を戦う勇気を持っている国家ということであろう。国家のために命を捧げる、これほど崇高な精神はないだろう。だからこそ、古代ギリシャでは指導者たるものはこぞってレスリングの訓練に励んで身体を鍛えたのである。プラトンは、オリンポスの祭典に出場はできなかったがそれなりのレスラーであった。
共和主義というのは、国民に命をかけて国を守る勇気を求めるものである。2004年のアメリカ大統領選挙でベトナム戦争での兵役の有無が争点になった。アメリカの大統領選挙になると、多くの争点が浮上してくるし、また選挙戦略も選挙結果に大きく左右するので、結果的にはブッシュが圧勝するのであるが、選挙の途中において、 ブッシュの兵役「忌避」疑惑が持ち上がった。当時、アメリカには徴兵制があった。兵役逃れをしたかもということで、国家への忠誠をないがしろにしたとみなされるのである。さらに民主党の大統領候補決まったジョン・ケリー上院議員はベトナム戦争の英雄ということで、ブッシュには分が悪くなったと言われている。アメリカでは、指導者の場合、国への忠誠心が大きな問題になるのである。
アメリカの共和主義は、もちろん古代ギリシャからの思想を受け継いでいるが、建国時において独特の思想が加味され、現在に至っている。独特の思想とは、アメリカインディアンの影響である。星川淳によれば(『小さな国の大いなる知恵』、ポーラ・アンダーウッド/星川淳、1999年、翔泳社)、アメリカの建国の父といわれる人たちは、初代から第5代の大統領に到るまで、インディアンのイロコイ族の影響を受けており、アメリカの独立宣言やその憲法には、イロコイ族の思想が色濃く反映されているという。合衆国憲法制定会議の起草メンバーたちは、「インディアン・クイーン」という居酒屋で熱い論争を交わしたという。そして、アメリカ建国の足どりはイロコイ族に「手を引かれるようにして」進んだのである。
 「トクヴィル、平等不平等の理論家」(宇野重規、2007年6月、講談社)という本がある。それによれば、フランスの偉大な政治家・トクヴィルは、アメリカ建国期のあと大した政治家がいないのに、アメリカという国がそれにもかかわらず問題なく動いている、という事実に驚いたらしい。すなわち、アメリカの政治体制は、かならずしも 政治家の個人的有能さに依存せずに運営されているという事実こそ、トクヴィルが着眼したポイントであった、それが宇野重規の見立てでもある。その原動力は、上記の著書では「タウンシップ」と呼んでいるが、アメリカのデモクラシーはもともとボトムアップで出来上がっているのである。すなわち、市民の意識として自立の精神が前提になっているのである。イロコイ族の影響はともかくとしても、アメリカの西部開拓魂というのは自立の精神である。
アメリカのケネディ大統領の就任演説 の一節に、「国が君たちのために何ができるかではなく、君たちが国のために何ができるかが問題だ!」という言葉がある。アメリカが建国時に打ち立てたのは、いまでいうところの「共生の思想」に基づく「共和国(Republic)であった。共和主義というのは、個人が個人であるための社会をみんなで築いていこうという思想にほかならない。 実際、北米に暮らした経験があればだれでも、向こうの人たちがいかに自分の属する集団やコミュニティーをよくしていこうとする努力を普段から行っているか を感じとることができる。たとえば、家庭の中では小さな子供にも皿洗いやゴミだしの役割を与えて、家族というひとつの社会を支えあうことを早くから学ばせ る。学校でも、自分たちの学校をいかに誇りの持てる学校にしていくかということを常に考えさせ、スポーツであれ、美術であれ、演劇であれ、音楽であれ、そ の年にもっとも貢献した生徒を表彰することをよくやる。そうした表彰の対象として、とくにcitizenship awardという賞を設けている学校も少なくない。citizenというのは市民という意味であるから、そこでは優れた「学校市民」として、だれ彼(彼 女)隔てなく友人関係を構築したり、親身にクラスメートの相談にのったり、イベントの企画や片付けを率先してボランティアしたり、というような学生が選ば れるのである。
個人が自分に認められている権利を主張したり行使したりするだけでは、その人はcitizenとは認められない。citizenという概念には、個人が自 分の属する集団やコミュニティーの中で義務や責任を果たすことが期待されている。冒頭引用したケネディの演説は、北米に根強いこうした思想的伝統を見事に表現しているのである。
日本にはこういう歴史的精神がまったくないので、私は、佐伯啓思の指摘はまったくその通りだと思う。

« 正義の偽装(その21第2章第1節3) | トップページ | 正義の偽装(その23第2章第1節5) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/55155624

この記事へのトラックバック一覧です: 正義の偽装(その22第2章第1節4):

« 正義の偽装(その21第2章第1節3) | トップページ | 正義の偽装(その23第2章第1節5) »