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2014年2月26日 (水)

正義の偽装(その21第2章第1節3)

正義の偽装(その21)

第2章 天皇

第1節 佐伯啓思の指摘(3)

佐伯啓思は「正義の偽装」の中で天皇に関連してさらに次のように述べている。すなわち、

『 西洋の世辞論でいう共和主義(リパブリカニズム)とは「公的なもの(レス・プブリカ)というように、あくまで「私的な事情」を抑えて国家の「公的な事項」へ奉仕するという政治なのです。国家の大事に関わる「公」が「私」より優位にたつ。そしてそのためには、強い「公共心」や徳義を持った「市民」が要請されるのです。これは、古代ギリシャやローマの都市政治のなかから生み出されてきた大変長い伝統を持つもので、この上に民主主義なる制度がのせられているのです。だから、民主主義が「私」の利益追求の上にたった政治制度であるとしても、その背後に、「公」への奉仕という共和主義が控えている。西洋の政治文化はこの二重構造になっているのです。』

『 日本へ共和主義がもちこまれればどうなるか。天皇をはずせば共和主義になるかと思いきや、まったくそうはなりません。もとよりここには、ギリシャ・ローマ以来の「レス・プブリカ」の伝統はありません。「皆のもの」という「公」の伝統はありません。だから「公」を獲得するすべてを失った「私」が政治の舞台へそのまませりだしてしまうのです。「国民のため」とか「国へのご奉公」などといっても、どうしても「私的事情」が政治の舞台を跋扈し、権力闘争の様相をおびてくる。政治は、「文」という「形」の重視ではなく、政権の争奪という擬似的な「武」によって動いてゆくのです。しかも、西洋では峻別される「共和主義」と「民主主義」が日本ではほとんど同一視されてしいます。「公のもの」を優位におく共和主義と「私の事情」から出発する民主主義が日本では混同され、民主主義が「公のもの」という建前をとりながら、実はとことん「私の事情」で動く、ということになってしまうのです。だから、「公」の舞台にあって、その内実は激しい権力争い、という事情になってしまう。』

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