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2014年2月16日 (日)

正義の偽装(その14第1章第3節5)

佐伯啓思の「正義の偽装」その14
第1章 自由主義と民主主義について
第3節 これからの日本の政治・・・民主主義について考える
5、セネットのポピュリズム
 ポピュリズム(大衆主義)は、必ずしも理想的な姿ではないが、現在のところ、積極的に肯定できる社会思想である。私は、政治も進化していて、ようやくにしてこのような良い政治になったと考えている。これからも進化しつづける。しかし、現時点で言うと、政治は良い姿になっていて、プラトンのいうような「哲人政治」は時代に逆行した「カビの生えた遺物」でしかない。
 リチャード・セネットというアメリカの社会学者がいる。1943年シカゴ生まれ。リースマン、エリクソンらに師事し、20代半ばから都市論などを発表し注目を浴びる。73年よりニューヨーク大 学教授を務め、同大学人文学研究所を設立。現在はマサチューセッツ工科大学(MIT)およびロンドン経済学校(LSE)教授としてロンドン在住。小説も発表し、プロ級のチェロ奏者でもある。彼は、著書「不安な経済/漂流する個人―新しい資本主義の労働・消費文化」(翻訳者森田典正、2008年1月、大月書店)の中で、次のように言っている。すなわち、
『 私の主張の要点は人々の怠惰にあるのではなく、人々に職人的思考を難しくする政治的風潮を経済がつくりだしたということにある。「柔軟な」労働を中心にして築かれた組織において、何かに深くかかわることは、労働者をうち向きなものに、あるいは、視野の狭いものにすると恐れられる。くりかえしていえば、ある特別な問題に必要以上の興味を覗かせる者は、能力判定を通過しない。いまや、科学技術自体が関与を求めないのだ。』
『 「組織のフラット化」「短期的価値の追求」といった「グローバリゼーション」に伴う一部の先端的な企業のあり方が広く「社会の趨勢」とされ、「プロテスタンティズム」と衝突し、コミットメントが軽視され、政治でさえも商品のように消費されるようになった、ということだろう。「関与を求めない」の意味するところがどこにあるか分からないが、科学もまた、そうした「短期的価値の追求」に染まっている部分はあるだろう。科学者も同じ社会に生きているのだから、当然それに影響される。問題はこの次にコミットメントの復権、職人的価値の復活が「来る」のかどうかである。』
『 人々はウォルマートで買い物するように、政治家を選択してはいないか。すなわち、政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われていないか。そして、政治世界の消費者が陳列棚の名の知れたブランドにとびつくとすれば、政治指導者の政治運動も石けんの販売宣伝と変わりないのではないか。』・・・と。
 また、山口二郎は、ブログの中でリチャード・セネットの考えを視野に入れながら、次のように言っている。すなわち、
『 現代の民主政治においては、各人の知的能力や政治的関心の度合いには無関係に政治参加の権利が与えられている以上、大衆の気分が政治に大きな影響を与えることは不可避である。』
『 ポピュリズム批判もかなり長い歴史を持っている。』
『 ポピュリズムの第1の特徴は、庶民(common man)の欲求と怨嗟を原動力としている点である。 第2の特徴は、指導者との直接的結合を目指すという点である。 第3の特徴は、単純な善悪二元論と敵と目されるものや異質なものの排除という発想である。』
『 以上がポピュリズムの基本的な特徴であるが、19世紀から20世紀中ごろまでの近代と20世紀末以降のポスト近代とでは、大きな違いも存在する。基本的な前提としては、経済的達成と、メディアの発展の度合いに関する大きな違いがある。 ここでいう近代とポスト近代という2つの言葉は、イギリスの政治学者、コリン・クラウチの『ポストデモクラシー』(近藤康文訳、青灯社、2007年)から示唆を得た概念である。クラウチは、20世紀に確立し、1970年代まで維持された、組織的政治参加の拡大+平等主義的福祉国家プログラムのパッケージをデモクラシーの最盛期と捉え、1990年代以降、組織の弛緩と政治参加の停滞、新自由主義的経済構造改革の展開、不平等の拡大などが結合したポストデモクラシー段階が始まったと捉えている。こうした歴史区分は、リーダーシップのあり方や庶民、大衆を政治的に動員する方法についても当てはまる。言い換えれば、20世紀後半までのデモクラシー(ここでいう近代)と21世紀以降のデモクラシー(ここでいうポスト近代)を区別する必要がある。ポピュリズムはデモクラシー段階とポストデモクラシー段階の両方に存在するが、その内容は大きく異なる。』
『  近代のポピュリズムは、平等化のベクトルに沿って動いてきた。リーダーはコモンマンの代表あるいは化身であった。そして、政治という活動は、価値獲得の手段であった。19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカでは大企業の横暴に対抗する農民運動が活発化したが、そのスローガンは「富の分け前をよこせ(share our wealth)」であった。まさに、価値を再分配し、社会の平等化を進める政治運動がポピュリズムであっ
た。』
『 これに対して、ポスト近代のポピュリズムは、正反対のベクトルに沿って動いているように見える。まず、ポスト近代のポピュリズムは、差別のベクトルを内包している。たとえば現在の日本ではグローバリズムがもたらす経済的不平等はなかなか政治争点化しなかった。ポピュリズムは富の再分配や平等化とは結びつかない。むしろ、「公務員」対「民間の低賃金労働者」、「都市の無党派層」対「農民、建設業者」という、全体の貧富のスケールから見れば小さな差異が争点化される一方、「ヒルズ族」と「ワーキングプア」の間に存在するような巨視的な不平等は放置される。』
『 ポスト近代のポピュリズムは、庶民の政治的受動性と結びつく。』
『 庶民はリーダーの権力基盤を強化している。そこにおいて庶民は、自ら行動するよりも、与えられた構図の中でリーダーが期待する役割を演じるという受動的な性格を持っているにすぎない。』
『 変化の不可逆性を認識しつつ、ポスト近代のポピュリズムが持つ陥穽をも見据えようというのがセネットの戦略であろう。彼は、現代の民主政治において、人々が市民から消費者・観客に移行することによって、「能動的に受動的状態に入ろうとしている」という逆説を見出す。その過程について、次の5つの要素を指摘している。第1に、政党・政治家の打ち出す政策が相似的になる。第2に、だからこそ政党・政治家は本質的ではない争点をめぐって対決を演じる。第3に、消費者・観客は、人間の持つ複雑性や曖昧さを受容できなくなる。第4に、人々はより利便性の高い政治を信頼するようになる。第3、第4の要素が重なり合えば、人々は、複雑な政策論を拒否し、単純明快な解決(英語で言うquick fix)を求めるようになる。第5に、継続的に供給される新しい政治製品を受け容れるよう促される。』
『 大量消費の資本主義文化に対抗する方策の1つとして、セネットは職人技(クラフトマンシップ)の重要性を指摘する。安価な大量生産の商品が市場にあふれるからこそ、手作りの製品も市場での居場所を確保できる。同じことはメディアにも当てはまるであろう。メディアが視点をずらす可能性を提示できるかどうかに、ポスト近代の民主主義の可能性がかかっているということができる。』・・・と。
 問題は、政治家にも、セネットのいう職人技(クラフトマンシップ)が必要だということではないか? また、政治も音楽やスポーツと同じように、ひとつの文化だから、やはりエリート教育が必要ではないか? その際には今西錦司の「リーダー論」が基軸になると思う。

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