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2014年2月 1日 (土)

四天王寺(その23俊徳丸の思想3)

知られざる四天王寺

その23 俊徳丸の思想 3

さて、人間にはいろんな人生があって、先祖から引き継いだ遺伝子によってその人の宿命はさまざまである。さらに、そういう遺伝子的なものだけでなく、家柄によって、後天的な生活様態を引き継いでいる。それが宿命というものだ。現在の境遇が良いときはそれで良いのだが、誠に苦しい境遇にあるときは、どのように毎日を生きるか、それが問題である。ほとんどの人は死ぬこともなく、なんとか歯を食いしばって生きているのだが、そのとき、彼らをそのように生に繋ぎ留めるものは何であろうか。ほとんどの場合は「あきらめ」であろう。しかし、よくよく考えてみれば、単なる「あきらめ」だけでは、その苦しい境遇から抜け出すことは難しいかもしれない。「待てば海路の日和あり」の譬えの通り、何かの僥倖があってその苦しい境遇から抜け出すこともあるにはあるが、やはり積極的にその苦しい境遇から抜け出す努力が必要だ。努力をする気力も失せてしまったという人は、残された道は「祈り」しかないが、できるならもう少し積極的な生き方をして欲しい。そのために、私は、折口信夫の考えを説明したいのだ。    

折口信夫は、自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように生きていた、と考える。「神よ、この清い私を見てくれ」というような生活をするということである。私は、そういう古代人の生き方に人間の本質があると思う。これが、折口信夫のいう神に対する「恐れ」である。私は、折口信夫の考えに賛成だ。「神よ、この清い私を見てくれ」ということは、神の怒りにみずからを共振させ、神の怒りを自分の「恐れ」にして奮い立つということである。   

身毒丸無慈悲な折檻を強いられながら、それに抵抗することなく、懸命に師匠の命令をただひたむきに実行する。そのけなげな姿に、源内法師は感動するのだが、神もそれを見て救いの手を差し伸べないはずがない。私はそう思う。   

私は、祈りの科学シリーズ(注9)の中で述べたが、神は間違いなく存在するし、条件次第では、人間から発せられる波動によって神との共振作用がおこる。人間と神とは、条件次第では、同期するのである。そのことは「祈り」の場合にも起こりうるが、人間が神を意識してただひたすらに「清い心」で何かに没頭する場合にも共振作用は起こるのである。神との共振作用などというと誠に難しく聞こえるが、私の小さい頃、おばあちゃんから、「そんなことをしていると、罰(ばち)があたるよ。」とよくいわれた。多くの人はそういう経験があるだろう。小さい子供にはそれがなぜ悪いのか理解できないかもしれないけれど、しょっちゅうそういうことを言われると、自然かみさんというのは怖いという感覚が身に付いてくる。私はそうして育ってきた。私は、大人になっても、道徳観念によって判断するのではなく、ともかく神を恐れる気持ちが大事だと思う。どんなに苦しい境遇にあっても・・・だ。    


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