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2014年2月12日 (水)

正義の偽装(その10第1章第3節3)

佐伯啓思の「正義の偽装」その10
第1章 自由主義と民主主義について
第3節 これからの日本の政治・・・民主主義について考える
3、ポピュリズム
 衆愚政治とポピュリズムは違う。衆愚政治とは、政治家の大半が知的訓練を仮に受けていても適切なリーダーシップが欠けていたり、判断力が乏しい人間に参政権が与えられている状況である。その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな政策が実行される状況をさす。また、政治家がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。エゴイズムは自己の積極的利益の追及とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどを含む。それに対し、ポピュリズムとは、ラテン語の「populus(民衆)」に由来し、民衆の利益が政治に反映されるべきという政治的立場を指す。大衆主義。ノーラン・チャートによる定義では、個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても慎重ないし消極的な立場を採る政治理念を指し、権威主義や全体主義と同義。個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても積極的な立場を採る政治理念である自由至上主義(リバタリアニズム)とは対極の概念である。
 私は、ポピュリズムを、ニーチェのいう大衆のルサンチマンが生み出す大衆主義だと考えており、プラトンの「哲人政治」とは対極のものであると思う。すなわち、ポピュリズムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。
 報道において「衆愚政治」という意味で用いられることもあるが、その場合は、「今日では、複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始し、真の政治的解決を回避するもの」として、ポピュリズムは批判的に言及されることが多い。民意を離れてデモクラシー(民主主義)は運用できないとしても、民衆全体の利益を安易に想定することは、少数者への抑圧などにつながり、危険であるからである。しかし、そういう行き過ぎがあると、これからの時代、そういうマイナス面をできるだけ速やかに是正していかないと大衆受けしないのも事実であろう。
 私は、日本の政治はようやくポピュリズム(大衆主義)になってきたとおもう。ポピュリズムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。民意を尊重する政治、おおいに結構なことではないか。
 なお、ポピュリズムは、得てして衆遇政治に陥りやすい危険性を常に持っているので、衆愚的な政治家を引っ張って、速やかに「民意」に落ち着かせる、そのような大リーダーが必要であることはいうまでもない。大リ-ダーは、人柄がよく、先行きが見えて決断が早く、そして結果について責任の取れる人である。今西錦司が言うように、人柄、洞察力、責任が大リーダの条件だ。国民の目から見て決めるべきはさっさと決めてほしいのである。小田原評議をしていても始まらない。そして失敗したときは責任を取ってほしい。

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