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2014年1月24日 (金)

四天王寺(その15折口信夫の小説「身毒丸」7)

知られざる四天王寺

その15 折口信夫の小説「身毒丸」7

源内法師は持仏堂に走り込んで、泣くばかりの大きな声で、この邪念を払いたまえと祈つた。
五度目の写経を見た彼は、もう叱る心もなくなつていた。
ほど近い榎津や粉浜の浦(住吉の二つの入り江)で、漁(あさ)る魚にも時々の移り変りはあつた。秋の末から冬へかけて、遠く見渡す岸の姫松の梢が、海風に揉まれて白い砂地の上に波のように 漂(ただよ)うている。庭の松にも鶉(うずら)の棲む日が来た。住吉の師走祓い(注8)に次いで生駒や信貴の山々が連日霞み暮す春の日になつた。弟子たちは畑で畝をすく作業をおこなった。猟にも出かけ た。瓜生野の座の庭には、桜や、辛夷(こぶし)は咲き乱れた。人々は皆旅を思った。源内法師は忘れつぽい弟子達の踊りの手振りや、早業(はやわざ)の復習の監督に暇もない。住吉の神の御田(おんだ)に、五月女の笠の動く、五月の青空の下を、二十人あまりの菅笠に黒い腰衣を着けた姿が、ゆらゆらと陽炎(かげろう)、そういう時期に一行は旅に上つた。

(岩井國臣のコメント:五月女は早乙女のこと。神社の御田の田植えの際に、神に奉仕するということで、紺の単衣(ひとえ)に白の手ぬぐい、新しい菅笠を被った美しいいでたちで若い女性がハレの役割を演じたのである。)
横山の陰が、青麦の上になびく野を越えて、奈良から長谷寺に出た一行は、更に、寂しい伊賀越えにかかつた。(岩井國臣のコメント:歩いていく道の横の山という意味であろうか。あるいは里山という意味で折口信夫は横山という言っているのだろうか。現在は横山というのは名字にしか使われない。)

草山の間を白い道がうねつて行く。荒廃した街道は、ところどころ叢(くさむら)になつていて、舞い立つ土ぼこりのなかに、何という名前の花だろうか、小さな花が血を零(こぼ)したやうに咲いていたりした。
小汗のにじむ日である。小さな者らは、時々立ち止つて、山の腰から泌み出てゐる水を、手に受けためては飲んだ。そうして先にゆく人々に追いすがるために、顔をまつかにしては、はしりはしりした。 国見山を前にして、大きな盆地が、東西に長く広がっていた。かなりな激流を徒渉したりして、山の懐に入ると、水を張った田に代掻く男の唄や、牛の声が、よそよりは、のんびりと聞えてきた。そこは、非御家人の隠れ里といつた富裕な郷であつた。

(岩井國臣のコメント: 鎌倉時代に、寺社領、公家領の荘園内の在地武士などの中には、全く幕府の支配と関係のないものもいた。こうした武士すなわち侍の身分で、御家人関係にないものを非御家人といい、幕府の保護もうけず、また義務もなく、幕府法の上では凡下(一般庶民)と殆ど同様に扱われた。そして御家人の所領が非御家人にうつることは禁止されていたが、鎌倉末期にはその傾向が強まり、幕府財源の減少を招いた。なお非御家人はモンゴル襲来の頃から、異国警護役などについて守護の統轄下で勤仕を命ぜられ、次第に御家人との区別が失われてきた。)
瓜生野の一座は、その郷士の家で手あついもてなしを受けた。源内法師は、すぐ明日の踊りの用意にかかる。力強い釈迦は、屋敷の隅の納屋から榑材(くれざい)などをかつぎ出すその家の人らに立ちまじつて丸太を製材して残った端の板働いている。
(岩井國臣のコメント:榑材は、丸太を製材して残った端くれのいた。明日の踊りの際のたき火か何かに使うのだろうか。)

注8:住吉の師走祓い

http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/no12.html

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