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2014年1月30日 (木)

四天王寺(その21俊徳丸の思想1)

知られざる四天王寺

その21 俊徳丸の思想 1

すでに、2の「四天王寺の本質」の所で述べたように、中沢新一 は、「俊徳丸の思想」という言葉を使っており、それはディオニュソス的なものであると言っている。そして、『 ディオニュソスの軸は、傷つきやすい生命の 過程に結びついている。それは、生ばかりでなく、死や腐敗を含んだ、円環でできている。この軸のまわりに息づいているものは、強者によって支配され、資源 として収奪されやすいが、人間の優しさはそこから生まれる。人間は自然から生まれながらも、ほかの生き物と違って、自然から自分を切り離そうとする生き方 を、選んできた。しかし、どこまでいっても人間は生き物なのであるから、自然の一部である本質を否定することはできない。』と言っている。    

だ から、中沢新一の考えでは、「俊徳丸の思想」とは、人間の本質的なものであって、人間の優しさはそこから生まれる。人間の本質的なもの、それは何か? 俊 徳丸伝説がそれを指し示している。俊徳丸伝説からそれを読み解かなければならない。そこで、私は、説経節「しんとく丸」を題材にして創作された一般大衆向 けのアニメ、近藤ようこのアニメ「妖霊星・・身毒丸の物語」を紹介し、さらに、折口信夫が、高安長者伝説から、宗教倫理の方便風な分子をとり去つて、最原 始的な物語に関してして書いた、小説「身毒丸」を紹介してきた。 近藤ようこのアニメは、説経節を下敷きにしているので、当然だが、宗教的な色彩が強い。神仏に対する「祈り」というものが人間の本質的なものとしてある、 と主張している。それに対し、折口信夫の小説は、宗教的なものを引っ剥がして、神に対する「恐れ」というものが人間の本質的なものとしてある、と主張して いる。両者の主張は全く正反対のものであるが、いろんな場で言っているように、「両頭截断」が必要だとする私の考えからすれば、両者の主張とも正しいので ある。 「祈り」については、すでに私は、「祈りの科学シリーズ」に一連のものを苦労して書いた(注9)。したがって、ここでは、折口信夫の小説を下敷きに、神に 対する「恐れ」について考察しておきたい。

注9:祈りの科学シリーズ    

「100匹目の猿が100匹」http://honto.jp/ebook/pd-series_B-MBJ-27435-9-124989X.html   
「今西錦司のリーダー論と松尾稔の技術論」 http://honto.jp/ebook/pd_25231955.html   
「怨霊と祈り」http://honto.jp/ebook/pd-series_B-MBJ-27435-9-124989X.html   
「祈りの国にっぽん」 http://honto.jp/ebook/pd_25231957.html   
「天皇はん」http://honto.jp/ebook/pd_25231958.html   
「地域通貨」http://honto.jp/ebook/pd_25231959.html   
「野生の思考と政治」http://honto.jp/ebook/pd_25231960.html   
「平和国家のジオパーク」 http://honto.jp/ebook/pd-series_B-MBJ-27435-9-124989X.html   

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