« 四天王寺(その13折口信夫の小説「身毒丸」5) | トップページ | 四天王寺(その15折口信夫の小説「身毒丸」7) »

2014年1月23日 (木)

四天王寺(その14折口信夫の小説「身毒丸」6)

知られざる四天王寺

その14 折口信夫の小説「身毒丸」6

自身の部屋に帰つて来た身毒は、板間の上へ俯伏(うつぶ)せに倒れた。蝉が鳴くかと思うたのは、自身の耳鳴りである。ふと気づくと黒光りのする板間に、鼻血がべつとりと 零れていた。そうしているうちに、放心していた意識が明らかに集中して来ると、師匠の心持ちがわが心に流れ込むように感ぜられて来る。あれだけの師匠を心労させるのも、自分の科(とが)だと考へられた。身毒は起き上つた。そして、机に向うて、五度目の写経にとりかかるのである。夢心地に、半時ばかりも筆を動かした。しかし、 もう夢さへも見ることの出来ない程、衰へきつている。疲れ果てた心の隅に、何処(どこ)か薄明りの射(さ)す所があつて、そこからまだ見ぬ世界が見えてきそうに思われ出した。身毒は息を集め、心を凝(こら)して、その明るみ(輝く世界)を探ろうと試みる。

(岩井國臣の注:神経を集中するときは、息を吐いていたのではだめで、息を吸いながらやるのが良いらしい。折口信夫はそれを「息を集め」と表現している。)

源内法師は、この時、まだ写経を見つめていた。そうしているうちに、涙が頬を伝うて流れた。俄(にわ)かに大きな不安が、彼の頭に蔽(おお)いかかって来た。九年前の味気ない記憶が頭を擡(もた)げて来たのである。四巻の経文をとり出して、紙も徹(とお)るばかりに見入つた。どれにも思いなしか、鮮かな紅の色が、幾分澱(よど)んで見えた。
部屋には、大きな櫛形の窓がある。それから見越す庭には、竹藪のほの暗い光りの中に、百合の花が、くつきりと白く咲いてゐる。
師匠が亡くなつてから、丹波氷上の田楽能の一座の部領(統括者)に迎へられて、十年あまりをそこで過していたが、兄弟子の信吉法師(身毒の父)が行方不明になつた頃呼び戻され て、久しぶりで住吉に帰つた。氷上(丹波地方の山里)で娶(めと)つた妻も早く死んで、もとより子もなかつた。兄弟子に対する好意、妻や子に対する愛情を集めて、身毒一人を可愛がつ た。二年三年たつうちに、信吉法師がどこかから、今にも戻つて来て、身毒をつれて行きそうな心持ちがした。思いなげな目(何となく何かを思っているような目)をあげて、覗き込む身毒の顔を見ると、いよいよ愛着の心が深くなつてゆく。
信吉法師が韜晦(とうかい)してから、十年たつた。(岩井国見のコメント:韜晦(とうかい)とは自分の本心や才能や地位などを包み隠すこと。ここでは姿を眩(くら)ます事を意味しているのだろう。)
源内法師はある日、ふと指を繰(あやつ)つて見て、十年といふ言葉の響きに、心の落ちつくのを感じた。信吉の馳落ちの噂を耳にした とき、業病の苦しみに堪へきれなくなつて、海か川かへ身を投げたものと信じていた。遠い昔のことである。ある時、信吉法師は寂寥(せきばく)と、やるせなさとを、この親身な相弟子・源内法師に打ちあけて聞かしたのであつた。源内法師は足音を盗んで、身毒の部屋の方へ歩いて行つた。
身毒は、板敷きに薄縁(うすぶち。ふちに布を縫い付けたござ)一枚敷いて、経机(きょうづくえ)に凭(よ)りかかつて、一心不乱に筆を操つてゐる。捲(まく)り上げた二の腕の雪のやうな膨らみの上を、血が二すぢ三すぢ流れていた。
源内法師は居間に戻つた。その身毒の美しい二の腕が胸に烙印した様に残つた。その腕や、美しい顔が、紫色にうだ腫(は)れた様(さま)を思ひ浮べるだけでも心が痛むのである。 そのどろどろと蕩(とろ)けた毒のような、血を吸ふ自身の姿があさましく目にちらついた。

(岩井國臣のコメント:源内法師は、身毒の「紫色にうだ腫(は)れた二の腕の血」を十分知りながらも、なお血書の写経を命じている自分を顧みて、自分自身を吸血鬼のように感じたのである。そのことを、折口信夫は「血を吸ふ自身の姿」と表現している。)

« 四天王寺(その13折口信夫の小説「身毒丸」5) | トップページ | 四天王寺(その15折口信夫の小説「身毒丸」7) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/54713548

この記事へのトラックバック一覧です: 四天王寺(その14折口信夫の小説「身毒丸」6):

« 四天王寺(その13折口信夫の小説「身毒丸」5) | トップページ | 四天王寺(その15折口信夫の小説「身毒丸」7) »